帰国者2世にも「新支援法」適用を求め3月15日に厚労省交渉
中国帰国者2世への「新支援法」適用をめざし支援の輪を広げようと協会本部帰国者委員会は毎月会合を重ね、現在「厚生労働省交渉」の準備を進めています。
「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立支援に関する法律」(1994年制定)が改訂され、2008年から帰国者1世を対象にした「新支援法」が施行されていますが、要求の柱はこの「新支援法」を改定して「帰国者2世にも適用してほしい」というものです。
この法律はその後改正され、1世の配偶者にも適用されていますが、帰国者2世は対象とされていません。しかし、親(帰国者1世)の帰国遅延が子(2世)の帰国遅延に直結し、日本政府が国費による同伴帰国を制限したため、さらに帰国が遅れました。そのため、帰国者2世の帰国時年齢は平均的な帰国者1世の帰国時年齢と大きく変わらず、帰国後の日本語習得や就労の困難性は1世と同様です。この実態に即した対応を「法制を一部改正して適用して欲しい」というのが要です。
一方で、困窮することなく自立している2世もいることから、帰国者2世には多様性があることを厚労省に認識させることが必要です。第2に、いま協会が実態調査をお願いしている「中国帰国者支援センター」関係の日本語習得施設や文化センターの経費削減などの問題について、厚労省交渉の際、質問や意見を出します。大阪や広島の「中国帰国者支援センター」には国から経費節減が通知されている実態も明らかになっています。
「帰国者2世にも新支援法適用」を実現させるためには多くの国民の理解と協力が必要です。「帰国者2世への支援署名」は今国会末に提出を予定しています。何卒ご協力をお願い致します。
帰国者二世問題学習&交流会に73人参加(オンライン)
日中友好協会本部主催の「中国帰国者二世問題学習&交流会」が11月26日(日)オンラインで開催され、18都道府県から73人が参加しました。交流会では、帰国者二世支援活動の到達点や今後の課題を中心に問題が提起され話し合いました。
首都圏、大阪、長崎、広島、福岡から参加した二世6人が、生誕から帰国後の厳しく悲惨な体験を語り、参加者は帰国者二世の置かれている社会環境の厳しさに身の引き締まる思いで聞き入りました。10万人目標で取り組んでいる二世支援署名は現在までの到達は6万1117筆で、来年(2024年通常国会(6月開会予定)めざし集中する。また二世全国連絡会準備会発足をめざすことなどを確認しました。
「中国残留二世の会全国連絡会」結成をめざす―『11・26対話と学習の集い』にご参加を!
日時:2023年11月26日(日)午後1時~4時
オンライン(ZOOM形式)
内容:残留孤児二世支援活動の到着点と展望・全国の「帰国者二世」の体験と期待発表・自由な討論と交流
※当日、午後1時までに協会兵庫県連合会事務所(JR摂津本山駅東)へ来て頂ければ集会に参加することができます。
主催:日本中国友好協会 ☎03-5839-2140
日中友好協会兵庫県連合会 ☎078-412-2228
中国残留日本人二世の人生が問いかけること
中国残留日本人とは、第二次大戦敗戦時、中国東北地方に取り残された日本人(残留孤児・残留婦人)です。残留日本人二世は、今もなお苦難の生活を余儀なくされています。二世たちの人生をふまえ、日本社会がどうあるべきかを考えましょう。
「学習講演会」
日時:2023年12月2日(土)14:00~16:00
会場:神戸市立総合福祉センター第5会議室
神戸高速鉄道「高速神戸」駅より徒歩3分、神戸市営地下鉄「大倉山」駅より徒歩5分(湊川神社西側)
講演:浅野慎一 摂南大学現代社会学部学部長・特任教授
中国残留日本人二世の人生が問いかけること―支援法から取り残された中国帰国者たち
中国残留日本人孤児を支援する兵庫の会・代表世話人、主な著書:「中国残留日本人孤児の研究」(2016年御茶の水書房)、「異国の父母 中国残留孤児を育てた養父母の群像」(2006年岩波書店)、その他著書・論文多数。
資料代:500円 予約不要
主催:兵庫県AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)連帯委員会
TEL&FAX:078-351-0194 E-mail:aala.hyogo@gmail.com
中国帰国者の「日本語教室」を再開
中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会が神戸市と明石市の委託事業として開催している中国帰国者のための日本語教室は9月7日(木)から再開しました。8月の夏休み明けで久しぶりの再会に話が弾んでいました。(写真は9月7日の神戸本山教室)
「中国帰国者2世の生活支援等を求める請願署名」は継続しています、ご協力をお願いします!
日中友好協会が進めている中国帰国者2世支援活動は、秋の臨時国会への請願に向け国会議員全員を対象に賛同要請を行い、8月時点で49人が賛同しています。「中国帰国者2世の生活支援等を求める請願署名」は第1次:31716、第2次:29275で総計で60991筆(目標10万)となっています。署名は引き続き進めています。また、帰国者2世問題の飛躍的前進のために、全国で「2世の会」づくりを帰国者と共に進め、11月中旬に「2世連絡会の結成推進をめざす全国オンライン交流会」開催を予定しています。
帰国者2世問題の国会請願は通常国会で「保留」に
今年の通常国会に向け請願を行っていた「中国帰国者2世問題」は6月21日の衆参厚生労働委員会で審議事項として採択されず「保留」扱いとなりました。請願運動は引き続き今秋(9月)の臨時国会に向け継続します。提出された請願署名は2万5023筆で昨年からの累計は5万8716筆となりました。
運動の中心課題は引き続き「10万人請願署名」の推進となり、第2次署名を継続します。また国会議員への地元での「紹介議員」承諾の要請や地方自治体への「就労支援」「日本語学習・文化交流支援」「生活保護受給者の中国渡航期間の制限撤廃」「帰国者自立支援センターの増設」など厚生労働省や地方自治体の対応で改善できる要求もあり働きかけを重視して取り組みます。
帰国者2世のさし迫った要請内容
●国費帰国者と私費帰国者の格差を無くして欲しい
●2世にも医療通訳が欲しい
●中国への里帰りの際に生活保護者が2週間を超えると保護費を減額することはやめて欲しい。1世と同じ2ヵ月にして欲しい
●交流の催しの費用を援助してほしい
(日中友好協会「帰国者ニュース」より)
中国帰国者2世に「支援法」適用を求める請願署名
署名は5月26日(必着)締切ます。6月5日(月)に参議院議員会館で院内集会を開催し紹介国会議員に手渡し国会要請を行います。お手持ちの署名があれば5月26日に間に合うようお届け下さいますようお願いします。
「尼崎の夜間中学で出会った中国残留孤児、そのルーツを訪ねて」オンライン講演会
日時:2023年4月16日(日)19:30~21:30
講師:宗景 正さん
写真家・中国残留日本人とその家族を支援する「コスモスの会」代表
1947年岡山県生まれ、著書:「夜間中学の在日外国人」「私たち、なにじんですか?」写真ルポルタージュ「開拓民 国策に翻弄された農民」(高文研より出版)
参加無料 参加人数:100名程度
申込方法:氏名・メールアドレス・お住いの都道府県名・所属団体等を明記の上、下記宛にメールでお申込み下さい。開催前日にZoomミーティングのID番号、パスコードをお知らせします。
uketugu@kansai.email.ne.jp
申込み締切:2023年4月12日(水)
主催:撫順の奇蹟を受け継ぐ会関西支部事務局
「中国帰国者を励ます集い」(福岡)YouTubeでライブ配信
2月26日(日)午後2時から福岡で「中国帰国者を励ます集い」があり、帰国者2世の方々が現状を語ります。この様子はYoutubeでライブ配信されます。Youtubeで福岡「中国帰国者を励ます集い」または「日中友好協会福岡県連」で検索して下さい。
中国帰国者2世支援署名へのご協力をお願いします!
署名の締切は4月末です!
激動の情勢の下で、「通常国会」が1月23日に始まりました。私たちが取り組んでいる中国帰国者2世支援「第2次請願署名」は今国会への提出を予定して進めています。請願活動は、①10万人署名②国会議員要請③厚生労働省交渉などが中心です。行動の基礎は国民世論の大きさです。請願署名と合わせて行っている帰国者2世への第2次アンケートなどを軸に急ピッチで取り組んでいますがまだまだ少数です。幅広い国民の声、支援が必要です。署名へのご協力を重ねてお願い致します。
日本中国友好協会兵庫県連合会 ☎078-412-2228
2022年度「中国残留邦人への理解を深める集い」(11月23日)での帰国者2人の体験発表を紹介します。
中国「残留日本人孤児」・植田恒陽さん(1944年生まれ)
皆さん今日は、私は植田と申します。残留孤児のこと、そして自分自身のことについてお話しをします。(原文のまま)
皆さんご存じのように、私たち残留孤児は、日中戦争の悲惨な被害者です。1945年、日本敗戦の混乱の渦中、中国の地で幼くして両親と死に別れ、残された私を捜索せず、日本への引揚の支援も行わず中国に遺棄しました。幸い善良な中国人養父母が私たちの命を救い育ててくれたのです。私たちは一生養父母の恩を忘れません。
1972年、日中両国の国交正常化しました。ところが日本政府は引き続き私たちを捜索せず逆に祖国日本への永住帰国を制限、妨害する政策をとりました。その結果、私たちの永住帰国はますます遅れ、帰国後の生活も極めて困難になりました。私たちと一緒に帰国した家族も大変な苦労を強いられました。今、残留孤児、平均で75歳以上の高齢です。身体が悪くなり、余生も残り少なくなり、様々な状況は複雑になり、永遠の別れを告げる残留孤児も後を絶ちません。
さて私は1944年、黒龍江省佳木斯市生まれです。1946年、私が2歳の夏、ハルピンは引揚列車を待つ日本人でごった返していました。私の一家もその中にいましたが、満州電信電話局の技師だった父はすでにシベリアへ送られていました。列車の出発日が翌日に迫り、母は不要な衣服を売るため市場へ行きました。私は母の後を追いかけ母とはぐれてしまいました。母は必死に私を探しましたがどしても見つからず近所の日本人に私を探してくれるよう頼み姉と兄を連れて列車に乗るしかありませんでした。こうして37年間私は親と離れ離れになりました。
私は中国人に拾われ、5人の娘がいる養父母の家に引きとられました。養父母の家は家族が多く生活はとても苦しかったです。だから、私は14歳で家計を助けるため、中学を3か月で中退し、国有の製薬工場で働きました。その後、ハルピン鉄道局に転職し、貴州・雲南・湖南省など中国南部を渡り歩き、トンネルや橋梁の建設に携わりました。
1977年、私は北京の日本大使館に何度も手紙を資料も提出して肉親捜しを始めました。その頃、実父は抑留先のシベリアから日本に戻り私の消息を懸命に探していました。1983年3月、父は厚生省を訪ね資料の中に自分に似た私の顔写真を見つけました。父は同年7月、私に手紙を書きました。私は手紙を受け取りとても嬉しかったです。両親がまだ健在だったのですから。
1983年12月6日、私にもやっと幸運が訪れました。第4回の肉親捜しの訪日団に参加することができたのです。私はとても嬉しく、幸福一杯でした。37年間別れ別れだった両親と会えたのです。面接が終わるとすぐ両親の家に行きました。夕方、家に着くと親戚や近所の人々が道の両側で歓迎してくれました。私はとても嬉しく幸せでした。3日間父母の家に泊まりました。残念ながら当時、私は日本語が分かりませんでした。でも両親は簡単な中国語が話せました。それに漢字で筆談して37年間の空白について交流しました。言語は不自由ですが、それでも心は一つです。3日間はとても楽しく幸せを満喫しました。
1985年、家族4人で日本に永住帰国しました。皆、「あいうえお」から日本語を勉強して息子2人はよく頑張り、今は皆2人とも大学を卒業し貿易会社に入り、今は皆幸せに暮らしています。残留孤児たちの一生はとても苦しく、悲惨です。私たちの身体の中には日本人の血が流れていますが、母国の言葉がうまく話せません。
2008年、新聞記者の樋口氏と写真家の宗景氏は「私たち何じんですか」という本を出版し、残留孤児の悲惨な境遇を紹介しました。「私たちはいったい何じんですか」これは私たちの心の奥底からの叫びです。中国で小さい時、同級生から「小日本」と言われ、多くのいじめにあってきました。そしてやっとの思いで祖国に帰って来ました。しかし、一部の日本人は私たちを見下し、いじめたり、私たちは本当に腹が立ちました。
2008年4月1日、中国残留邦人に対する新しい支援策によって「残留孤児」に対する国の姿勢は大きく転換し、老後の生活の保障は前進しました。厚生労働省は私たちの様々な要望を真面目に受け止め支援策の改善に尽力してくれています。心から感謝申し上げます。二つの祖国を持つ中国「残留孤児」は文字通り日中友好のかけ橋であり、両国の平和を誰よりも望んでいます。今の日本政府が残留孤児に温かく支援する姿勢は日中友好の証として大きな意味をもつものです。これからも私たちは楽しく余生を過ごしたいと思います。(2022年11月23日、神戸・新長田のピフレホールでの体験発表より)
仲松蘭子さん(残留婦人2世の配偶者)の体験発表
私は中松蘭子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
1991年12月に私は家族4人いっしょに日本へ来ました。夫婦と子供2人です。そのとき主人は42歳、私は41歳、こどもは16歳と13歳でした。私の主人仲松長征は帰国者二世です。主人の母は残留婦人で仲松良子と言います。母の出身地は沖縄です。戦時中の昭和18年、その時勤めていた紡績会社が満州に紡績工場を建設するので、家族と別れ、たった一人で、会社の人といっしょに満州瀋陽に渡りました。母は14歳でした。
1945年8月敗戦で、満州に住む日本人の境遇は一変しました。母は日本に帰りたかったけれど、乗るつもりの帰還船が沈没してしまって帰れなかったそうです。1946年17歳の時に中国人である父と結婚し、山東省に暮らしました。こどもが6人生まれました。私の主人は長男です。(姉1人、弟4人)。
文化大革命のころ、母は日本のスパイ、父は走資派(資本主義の道を歩む反革命分子)と批判され、とんがり帽子をかぶせられ街頭に立たされました。主人は1966年に遼寧省の盤錦という貧しい農村に下放され、農作業に従事しました。4年後1970年に会社に入り、1975年に私と結婚しました。子どもが二人生まれ、盤錦で楽しく暮らしていました。母も瀋陽で貧しいけれど元気に暮らしていました。
1980年末に、母仲松良子は日本に一時帰国することが可能になり、37年ぶりに祖国沖縄の土を踏み、きょうだいたちと再会し、半年後に再び中国に戻りました。母はふるさとがなつかしく、祖国に帰りたいという気持ちが募り、家族と相談し、1991年1月に母夫婦と子ども6人計8人で、先に日本へ帰国しました。私と子ども二人は瀋陽に残りましたが、その年12月に私は子ども二人を連れて日本へ来ました。
母仲松良子は帰国後まもなく食道ガンを患い、阪神淡路大震災の2か月あとに67歳で亡くなりました。今は舞子墓園に眠っています。母は、日本で14年+4年合わせて18年、中国で48年の生涯です。14歳で満州に渡り、2年後16歳のときに敗戦。突然、日本語がまったく役に立たない環境の中に放り出され、現地の中国人男性と結婚する以外に生きる道はありません。残留婦人と呼ばれる人は、みんな同じ運命です。しかし、どんな苦しいこと辛いことがあったのかを、子供や孫にも話さない人が多い。主人も私も、敗戦後の満州で母がどんな厳しい苦しい生活に耐えてきたのかを知りません。母が逆境の中を力強く生き抜いたおかげで、6人のこどもとその家族は、今日本で平穏に暮らしています。残留婦人は、日本生まれ、両親は日本人、正真正銘の日本人ですが、日本政府が中国人家族つまり夫と子供の同行帰国を認めなかったために、大幅に帰国が遅れたのです。これは日本政府の過ちだと思います。
私の家族4人は、日本に来た時、日本語が全然わかりませんでした。子どもは中学1年生と2年生に入学、その時友だちの通訳で入学手続きをしました。子どもたちは日本語が全然わかりませんので、学校の先生が神戸市教育委員会に申請してくれて、日本語と中国語がわかる先生が学校に来て、熱心に親切に日本語を教えてくれました。こどもたちは学校で何もわかりませんでしたから、先生と友だちはみなさん家族のようにやさしく親切にいろいろ助けて下さいました。そのような中で、子どもたちは日本語が段々上手になり、楽しみながら健康的に成長しました。このような日本の教育環境はすばらしいと思いました。
長男は大阪工業大学を卒業して貿易会社に勤めています。次男は神戸長田工業高校を卒業して、今は会社員です。二人とも結婚しています。私の孫は6人います。主人は日本に来てすぐに友人の紹介で、三菱重工の下請け会社で18年間溶接の仕事をしました。朝から晩まで働きづめで、日本語の勉強をする時間はありませんでした。でも仕事に真面目に取り組み、皆から信頼されていました。ほとんど休まなかったので、もちろん疲れましたが、家族と幸せに暮らせることが喜びでした。
私は日本に来た当初、日本語が全然わかりませんでした。友だちの紹介で、灘区の日本語教室で「あいうえお」から勉強しました。私の家族は日本に来た時、生活保護をもらわず、主人の給料だけだったので、生活は厳しいです。それで私は日本語勉強をやめて、仕事を探しました。言葉ができませんから、仕事を探すのは本当に大へんでした。でも感じたことは日本人が非常にやさしいということです。日本人の友人が会社を紹介して下さいました。
私が早く日本語を覚えるために、市営住宅の同じ建物の1階から5階までに住んでいる主婦たちが、毎日私が仕事を終わって家に帰る時間4時ごろに、3階の階段で待ち合わせて、いっしょに話をしながら日本語を教えてくれました。日本の友人から好意的な援助を受けたことで、私の家族は困難な日々を乗り越えることができました。日本の社会は、人を助けることを喜ぶ精神にすごく包まれていると感じました。
16年前に、膝を痛めて歩きにくくなり、仕事をやめました。ちょうどその時主人の仕事もなくなりました。区役所に相談して生活保護をもらいました。13年前から、学園都市ユニティの日本語サークルに入り、その2年後に支援の会の明石日本語教室で勉強し始めました。そのおかげで13年間少しも退屈することはありません。ユニティ教室と明石教室は暖かい実家のようで、いちばん心を落ち着けて勉強できる場所です。先生たちはいつも私たちに関心を持ってくれる家族のような存在です。熱心に親切に日本語を教えてくれます。日本社会で大きな不安を持っている私たちはここでしか癒されないと言っても過言ではないと、私は思います。いろいろ助けて下さった日本の友人と日本語の先生たちに感謝しています。
私たちにとって、日本は異文化の地であり、日本語は幼いころから自然に身についた言葉ではありません。日本語を学ぶことは大へんなことですが、周囲の人たちともっと楽に交流できれば、生活が楽しくなると思います。ですから今は日本語でもう少しスムーズにコミュニケーションできるようになることが私の目標です。これからも日本社会で生きていくために日本語との付き合いは続きます。日中両国の友好がこれからもずっと続くことを心から願っています。(2022年11月23日、神戸・新長田のピフレホールでの体験発表より)
帰国者2世支援国会請願署名へのご協力をお願い致します!
8、引揚船に乗れなかった人々のその後(残留日本人)
引揚から取り残され、中国に残留を余儀なくされた日本人もいます。「残留日本人(残留孤児/残留婦人)」と呼ばれる人々です(注Ⅰ)。
日本政府は1958年に引揚事業を打ち切った後、未帰還者の捜索・調査を行いませんでした。また1959年には未帰還者の「戦時死亡宣告」を推進しました。中国で生きていた残留日本人の戸籍は、「死者」として抹消されていきました。
1972年9月、日中国交がようやく正常化しました。しかし日本政府はこれを機に、中国に残留していた日本人の日本国籍を、本人の意向も確認しないまま一律に剥奪しました。そこで残留日本人は、日本人として日本に引き揚げる法的根拠も奪われました。こうした日本政府による帰国妨害・制限は、世論の批判を受けて1994年に撤廃されるまで、20年以上も続きました。そのため、残留日本人の帰国は大幅に遅延し、帰国できた時はすでに中高年になっていました。大多数の残留日本人は帰国後の日本社会で言葉も通じず、貧しく孤独な生活を強いられました。
日本に帰国した残留日本人は2002年、日本政府の責任を問う国家賠償訴訟を全国各地で起こしました。2004年、神戸地裁では残留孤児が勝訴しました。他の多くの裁判所も、日本政府の政策の不備を厳しく指摘しました。そこで2007年、残留邦人支援法が一部改正され、新たな支援策が実施されました。しかし、こうした残留邦人・中国帰国者については、高齢化に伴う新たな苦難、二世・三世の問題など、今なお多くの問題が未解決のまま残されています。戦後77年、日中国交正常化50年。戦争と引揚・残留の傷痕は、今も日本社会に深く刻み付けられています。
(注Ⅰ)1972年の日中国交正常化以降までに日本に帰国出来ず中国に残留した日本人を「残留日本人」という。1945年の日本敗戦時、13歳以上だった人を「残留婦人」という。なお残留日本人の中で、1972年以降に日本に帰国した人を「引揚者」と区別して「(中国)帰国者」という。(浅野慎一摂南大学特任教授)
中国帰国者2世支援活動「第2次署名」にご協力を!
今年6月の通常国会に提出した「第1次請願署名」(31063筆)は審議未了となりリセットとされました。改めて第2次署名簿(新署名)で改めて10万人を目標に署名運動に取り組んでいます。第1次署名をされた方々も再度署名することが出来ます。帰国者2世の生活等支援署名に何卒ご協力下さいますようお願い申し上げます。
添付の署名用紙をダウンロードして頂き県連事務所又は最寄りの支部へお届け下さい。
高齢となった帰国者2世の多くは働くこともできず、僅かな年金では生活が出来ないため制約の多い生活保護に頼らざるを得ません。その中でも特に、身体が悪くなった場合、支援法が適用されないため支援通訳に依頼できず自身の症状を医師に正確に伝えることができません、切実な問題です。帰国者2世に支援法適用を次期国会に請願する署名(2023年4月末集約)に何卒ご協力をお願い致します。
「帰国者2世支援」新たな意気込みで前進を目指します!
「2022年8月19日・20日・21日付しんぶん赤旗より」
「中国残留邦人支援法を改正し2世に適用を」めざし6月の通常国会に全国から集まった署名を提出し国会へ請願しましたが審議となりました。
日中友好協会などの支援活動は、これまでの成果(衆参両議員の80%を超す572人訪問)を踏まえ、取り組みの中で提起された4点を実行するために厚生労働省・国会への要請行動を継続します。
- 38人の「紹介議員」をさらに増やす努力をする。特に賛同が得られなかった自民、公明、維新の議員への働きかけを継続する。
- 「第2回厚生労働省交渉」を要求する。
- 日中友好協会主催で「活動経験交流会」を頻繁に開催する。
- 九州地区以外の「帰国者2世の会」との交流をすすめ強化する。
さらに運動の要となる「請願署名」を来年4月の通常国会提出をめざし継続して取り組みます。新たな署名用紙は9月ごろ完成をめざして準備しています。改めて多くの方々のご支援、ご協力をお願い致します。
一年半ぶりの「生活講座」で折り紙を学ぶ
中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会は6月30日午後、一年半ぶりに「生活講座」を開催しました。昨年は、コロナ感染症の拡大で中止を余儀なくされていましたが、今年4月から「日本語教室」を再開していたこともありこの日久しぶりに生活講座を開き、「残留孤児」7人と2世1人の8人が参加しました。
この日は、和田隆子さんを講師に招き、配付された図入りの折り方資料を見ながら講師の説明を聞き、ボランティアの助けも借りて複雑な「コマ」と「カエル」の折り紙に挑戦していました。出来上がった作品を見せ合い、持って帰って孫にあげる、などと久しぶりに会話が弾んでいました。
中国帰国者の日本語教室は4月から再開
神戸市、明石市の委託事業として中国帰国者への日本語教室を開催している中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会(浅野慎一世話人代表)は、コロナ感染予防対策として今年2月、3月、本山教室、明石教室を休講としていましたが何れも4月7日から週1回の予定で再開しました。(写真は4月7日の本山教室)
中国帰国者二世支援、厚労省交渉から国会請願へ
4月1日午後、九州の中国帰国者二世連絡会がまとめた4項目の要望書を基に厚生労働省交渉が行われその様子がオンラインで全国に紹介されました。倉林明子参議院議員が紹介者となり、①老後の生活支援②自立支援の充実③生活保護の運用改善④尊厳回復のための施策の4項目について厚労省担当者2人と話し合いました。帰国者2世の生活支援を求める請願署名2万7千筆は4月18日午後、参院議員会館で集会を開き国会議員を通じ提出しました。
「10万人署名」は2022年6月5日までに達成が目標
今国会での審議を求めて現在取り組んでいる「中国『残留孤児・婦人』2世の生活支援を求める請願署名」は国会の会期末(6月15日)の10日前(6月5日)までに提出しなければなりません。推進速度を速めて目標達成に向けがんばります、ご協力をお願い申し上げます。
残留孤児の体験談「私の人生 戦争と中国人」
私は、残留孤児の本信一です。1936年7月、神戸市長田区で生まれました。父は中国の黒龍江省で日本軍の兵器工廠の技師をしていました。私は1944年、8歳の時、父が住む「満州」に渡りました。そして1945年の日本敗戦時、ソ連軍が侵攻する大混乱の中、父母と生き別れになってしまいました。数え切れないほどの日本人の死体を目にしました。ソ連軍の兵士は残虐で、日本人女性を見ると次々に拉致・強姦・殺害しました。私は女性の叫び声ばかり聞いていました。
私は、遼寧省瀋陽市まで逃げました。浮浪児として瀋陽駅の近くをさまよい、物乞いをして何とか生き延びました。生きるために食料を盗んで蹴られ、手がちぎれそうになったこともあります。腹が水で膨らみ、死にそうになったこともあります。私たちのような人間は、今まで気も狂わずに生きて来られただけでも幸いです。
中国人の養父母に引き取られましたが、私はひどい下痢のため、死ぬ寸前でした。養父母は貧しい中で高い治療費を支払い、手厚い治療を受けさせてくれました。でも1948年には、この養父母も病気で亡くなり、私は別の養父母にに引き取られました。その後、私は全部で5軒の養家を転々と渡り歩きました。その間、物乞いとして街頭をさまよい歩き、何とか生き延びてきました。小学校も、とぎれとぎれに3年ほどしか通っていません。中国語の読み書きは今も苦手です。
中国では、建築や炭坑、武器や電球の製造工場で中国人の同僚と一緒に働いてきました。文化大革命時代、迫害された残留孤児もいましたが、私は大丈夫でした。職場の上司がかばってくれ、同僚とも仲良く付き合っていたからです。中国で結婚し、3人の子どもにも恵まれました。
私は、私を守り育ててくれた中国の人々に心から感謝しています。二番目の養父の妹は日本兵に強姦され、姉婿も多くの同僚を日本軍に銃殺されたので、日本人をとても恨んでいました。それでも養父母は私を引き取り、育ててくれたのです。中国人は偉大としか言いようがありません。
私は日本の侵略戦争で、実の家族を失いました。戦争は本当に悲惨です。当時の戦争を「大東亜共栄圏」を目指したとか、「中国にとって良いこともした」という意見を聞いたことがあります。これは、大間違いです私たち残留孤児の被害、日本の原子爆弾の被害などを考えてみて下さい。戦争は、たとえどんな理由があっても絶対にしてはいけない。これは全世界人民の共同の叫びです。(中国帰国者と市民をつなぐ交流誌「有隣通信」より)
中国帰国者2世にも新支援法適用し生活保障を!
帰国者2世の生活支援等を求める請願署名
2022年4月に国会へ提出、ご協力をお願いします。
兵庫県連合会の集約数:1,450署名(目標は5000)
帰国者2世問題オンライン学習会
日中友好協会本部「中国帰国者委員会」と同福岡県連合会が中心になり、「中国帰国者問題習会」を開催します。次期の通常国会(2021年10月以降)までに10万人署名達成を目標にしている「帰国者2世の生活支援を求める請願署名」を飛躍的に推進し、またオンラインでの厚生労働省との交渉を効果的に進めるために、オンライン学習会を多くの方が視聴し、質問や意見を出して頂くよう強くお願い致します。開催要項は下記の通りです。
日時:2021年8月20日(金)午後2時~4時
講師:浅野慎一神戸大学大学院教授
テーマ:帰国者2世問題について
Zoomホスト:日中友好協会福岡県連合会
参加希望の方は下記へメールアドレスをお知らせ下さい。
日中友好協会福岡県連合会 info@jcfa-fuk.jp
お問い合わせ先 福岡県連合会 担当:星野信
電話:090-6428-0012
協会本部 電話:03-5839-2140
NHKで福岡の帰国者2世が紹介されます
NHK福岡が帰国者2世の小島北天さんに焦点をあてたニュースを4月15日に放送しました。この時はローカル放送でしたが、5月18日(火)に全国放送されることになりました。早朝の放送ですがぜひ視聴
中国帰国者の神戸岡本「日本語教室」再開
新型コロナ感染症の拡大で緊急事態宣言が出て以来、今年1月から休講していた神戸・岡本の中国「残留日本人孤児」のための日本語教室は4月8日(木)から再開しました。しかし、いま再び感染が拡がりをみせているため参加人数を半分にし、隔週毎の参加として、入り口で全員検温、机に飛沫防止対策を施し開催しています。
中国残留孤児・婦人二世にも「新支援法」の適用を!
九州地区中国帰国者二世連絡会(2世の会)は、帰国者二世にも新支援法適用の国会請願要求実現のための活動資金をインターネットで募る「クラウドファンディング」(CF)で協力を訴えています。募集期間は3月8日~4月28日まで、目標金額は100万円。
2世の会は街頭に立って帰国者の実情を訴えたり、インターネットを通じ協力を呼びかけています。これまでに80人の支援者からメッセージを添えて70万円余りが寄せられていますが、締切日までに目標金額に達しなければ支援金を受け取ることが出来ず必死に協力を訴えています。2世の会会長の小島北天さんは「日本の社会になじめず、70歳を過ぎても働かないと生活できません」と苦しい実情を訴えています。
CFのURL https://readyfor.jp/projects/ncf にアクセスしご支援頂きますようお願い申し上げます。締切は4月28日(水)午後11時まで。
中国帰国者のための日本語教室、岡本教室は4月から、明石教室は3月から再開
神戸市と明石市の事業委託団体である中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会は、中国帰国者のための日本語教室の「岡本教室」を2021年3月末まで休講し、4月8日から再開、「明石教室」は3月から再開しています。
中国「残留孤児・婦人」2世の生活支援等を求める請願署名にご協力お願いします!
中国「残留日本人孤児」訴訟後の2007年に議員立法により「新支援法」が成立しました。しかし、新支援法では、中国「残留孤児・婦人」2世を生活保障の対象にしていません。高齢化を迎えた2世の多くは30~50歳で帰国したため日本語も話せず、低賃金、過酷な労働を余儀なくされ、かつての1世同様に生活保護に頼らざるを得ない人が多くいます。「残留孤児・婦人」2世においても尊厳のある安定した老後生活が送れるよう日中友好協会は請願署名に取り組んでいます。協会全体で10万筆、兵庫県で5千筆を目標としています。署名用紙をダウンロードして頂き、署名へのご協力をお願い致します。
日本中国友好協会兵庫県連合会
〒658-0072 神戸市東灘区岡本1丁目14-10 岡本住宅ビル3F
Tel&Fax:078-412- 2228
中国帰国者のための「日本語教室」は緊急事態宣言発出により1月、2月は休講しています。
中国帰国者のための「岡本日本語教室」
2グループに分かれ9月3日(木)から再開した中国帰国者のための「日本語教室」は、9月10日(木)、岡本教室では別のグループが参加して2回目を開催。この日は6人の帰国者と8人のボランティアが参加しました。
参加者全員、入り口で検温しマスク用で教室へ、室内はエアコンを入れ、全ての窓を開け更に扇風機を回して室内に空気の流れを作り、帰国者とボランティアの間に飛沫を防止する透明のビニールで手作りした仕切りを立て、途中で10分間休憩するなど万全の対策で安全を確保し学習しています。(写真は9月10日の岡本教室)
神戸・岡本、明石で中国帰国者の日本語教室を再開
神戸市と明石市の委託事業として中国帰国者を対象に日本語教室や生活講座を開催している中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会(浅野慎一代表)は、新型コロナウイルス感染症拡大により3月から休講していた日本語教室を9月から再開しました。9月に入っても神戸、阪神間や明石では毎日のように新規感染者が発表されています。神戸・明石の教室では、出席者の検温、3密を避ける感染防止対策を徹底しながら6か月ぶりにあいさつを交わし合い学習を始めました。
中国残留婦人二世・河野文江さんが語ります
「私は日中戦争という大災害に翻弄される運命を背負った日本人の母と中国人の父との間に混血児として生まれました。それも勝者と敗者との間の『混血児』としてです。私の体には洗い流すことの出来ない赤い二つの血が流れているのです。
以来、自分が経験したこともない戦争の傷を背負わされた人生が始まったのです。中国で生まれた私は、幼い頃から『小日本鬼子』と呼ばれて蔑まれ、様々な悪戯やいじめを受けました。そんな時、どうしてこんなに嫌な思いばかりするのかと、私を生んだ母を度々憎んだものです。革命の動乱が続く中で父と母は夜遅くまで働いていました。そのために私は幼い頃から他人の家に預けられる生活を送ることになったのです。物心がつくまで人の家を転々として暮らして成長したため家庭の『温もり』を味わうことがありませんでした。
戦争によって望まずして翻弄され悲劇を生きなければならなかった人たちが、大勢存在することを知って貰うことは大切なのだと思います。二度と戦争という悲劇が起きないためにも私は自分の歴史を書き残そうと思ったのです。(「新訂」ハルビンの空:発行オンタイムズより)
日時:2020年8月30日(日)午後12時30分~
会場:西宮市立勤労会館4F第8会議室
記念講演:河野文江さん(中国残留婦人二世、神戸市在住)
「あの戦争とは平和とは国とは・・そして私たちの現実と展望」
講演終了後、西宮支部総会を開催します。
コロナ対策に万全を期して開催します。
主催:日中友好協会西宮支部
電話:0798-38-8081
満蒙開拓移民
1931年の「満州事変」から1945の敗戦までの間、国策として中国の東北地方へ32万人が移住させられました(1936年、20年間で100万戸、500万人の移住計画)。「開拓民」が入植した土地はその6割が中国人や朝鮮人の耕作していた既耕地を取り上げたり、ただ同然に買収した農地であり、開拓地といえない土地も少なくありませんでした。
45年8月、ソ連軍が侵攻してくると関東軍は「開拓民」を置き去りにして朝鮮半島北部へ撤退。開拓団民は逃避行を余儀なくされました。その過程と収容所での過酷な環境の中で8万人が命を落としました。また中国人と結婚したり、子供は中国人に養育され、戦後、日本に帰国できた多くの人も残留婦人、残留孤児として厳しい生活を強いられました。(日中友好ブックレット3―日本は中国でなにをしたか―より
帰国者・支援者がバスで和歌山有田へみかん狩りに
日本語教室や生活講座を開催し中国帰国者への支援活動を続けている中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会は、11月3日(日)、帰国者121人とボランティア17人がバス3台に分乗し神戸から和歌山県有田市のみかん農園へ「みかん狩り」に行きました。途中、黒潮市場で昼食をとり土産物をいっぱい買い帰国者たちは嬉しそうでした。みかん農園では「食べ放題1時間」は余すほどでしたが、天候にも恵まれ、黄金色に実ったみかんを手に楽しく交流することができました。
中国帰国者2世への新支援法適用を求める請願署名
第1次分8867筆を国会議員に手渡す。目標は10万
中国帰国者を支援する日中友好協会は、福岡県中国帰国者2世の会(小島北天会長)の呼びかけに応え、全国で署名活動を展開しています。新支援法を帰国者2世にも適用する場合、法改正が必要となります。これまで福岡県2世の会、日中友好協会福岡県連が国会議員への要請行動を行い8人の国会議員が紹介議員となり、4人が交渉中です。党派別では、自民1人、公明2人、立憲民主1人、国民民主2人、共産2人。6月3日(月)、衆議院第2議員会館で署名提出・国会行動を開催、この日は田村貴昭衆議院議員(共産)と厚生労働省中国残留邦人支援室から2人の職員が出席しました。福岡帰国者2世の会事務局長・日高秀子さん(残留婦人2世)が5月31日までに集めた署名8867筆を田村議員に手渡し、帰国後の状況を説明し協力を求めました。(写真:正面左、体験を語り協力を訴える日高秀子さん。左は訴えを聞く田村貴昭衆議院議員)
残留孤児・残留婦人2世は、30~50歳で帰国している人が多く日本語が十分話せません。日本語の勉強に行くにも支援法が受けられず生活費や交通費は全て自己負担なので続けることが出来ない状況です。仕事に就くにも言葉が出来ないため身体にきつい仕事しかなく、身体を悪くしてやめても何の保障もなく、働く年数が短いため支給される年金は月2万円前後でとても生活出来ない状況で、生活保護に頼らざるを得ません。帰国者2世は「私たちにも国の支援法を適用してほしい」と署名への協力を訴えています。
「中国『残留孤児・残留婦人』2世の生活支援等を求める請願署名」にご協力お願いします!
中国「残留孤児・残留婦人」2世は新支援法から除外され、かつての1世同様に、生活保護に頼らざるを得ず、厳しい生活を余儀なくされている方が多くいます。「残留孤児・残留婦人」2世においても尊厳のある安定した老後生活が送れるよう新支援法適用を求める請願署名に何卒ご協力をお願い致します。6月3日に、全国で集まった署名第1次分を国会へ提出します。署名は継続しています。
兵庫県内の署名集約数:現在 901筆(目標:5000筆)
中国帰国者のための公墓・記念碑が完成、舞子墓園で竣工式を開催
中国帰国者一世の多くが祖国日本の土に骨を埋めたいという願いを抱きながらも経済的困窮で墓を持つことが困難な中、共同墓地と記念碑建立に取り組んできた兵庫県中国帰国者の会(植田恒陽代表)は中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会の協力を得て募金に取り組み、兵庫県や神戸市に助成を要望してきました。神戸市から墓碑建設用地の提供を受け、兵庫県からは記念碑建設費用の助成を受け、募金を合わせ念願の公墓・記念碑が完成しました。
3月26日午後、神戸市立舞子墓園で竣工式が開催され、兵庫県社会福祉局長、神戸市長、支援団体代表、弁護士の会など多数の来賓が出席、帰国者や支援者約80人が式典に参加しました。植田恒陽代表(74)が帰国者を代表して協力への感謝の言葉を述べました。尾山県社会福祉局長が県知事のメッセージを代読、久元神戸市長が来賓あいさつし、記念碑の除幕が行われました。
記念碑には「残留孤児の悲惨な歴史を永く後世に伝え、世界に二度と戦争の惨禍を起こさせないための礎とする」と刻まれ、植田代表は墓碑管理会をつくり大切に維持、管理し多くの人々に苦難の歴史を伝えていきたいと語っています。(写真上:記念碑、下:竣工式であいさつする兵庫県帰国者の会・植田恒陽代表)
日本人と認めてほしい―74年ぶり帰国の女性
日本人でありながら、日本人と認めれられない中国「残留孤児」の女性がいます。彼女の名前は郜鳳琴(ヵォㇷォンチン)さん。縁あって、昨年8月熊本県に住む残留日本人孤児・庄山絋宇さん(80歳)と結婚し、年末に日本へ帰国しました。詳しい経緯は日中友好新聞3月15日付一面に大きく紹介されています。
中国帰国者2世に新支援法適用を求める請願署名にご協力を!
中国帰国者支援・尼崎日本語教室の学習発表会
中国残留邦人支援団体・コスモスの会は年1回「学習発表会」を開催しています。日本語を学ぶ中国残留日本人孤児が中国や日本での体験を日本語で発表します。第10回となる「学習発表会」を下記の通り開催します。どなたでも参観できますのでお気軽にご来場下さい。
とき:2019年3月12日(火)午後1時~3時
会場:尼崎市立中央公民館3F大ホール
尼崎市西難波町6丁目14-34
中国残留邦人支援団体コスモスの会「日本語教室」
人間らしく生きたい 署名にご協力を
中国帰国者2世にも「新・支援法」の適用を!
国が1世と国費同伴帰国できる2世を未婚の20歳未満に限定したため、新・支援法による生活保障から「残留婦人・残留孤児」2世は除外されています。30歳~50歳で帰国した大半の帰国者2世は日本語も話せず、低賃金、苛酷な労働を余儀なくされ、高齢化を迎えた今日、かつての1世と同様に、生活保護に頼らざるを得ない人も多くいます。中国帰国者2世の会、日中友好協会などが協力して「帰国者2世にも新・支援法適用を」の請願署名に取り組んでいます。日中友好新聞に福岡県内の取り組みが大きく紹介されました。現在取り組んでいる署名は、「新・支援法」を改正して帰国者2世にも生活支援の適応をめざすものです。署名用紙をダウンロードの上ご協力お願いします。
署名は下記へお送り下さい。〒費用はご協力お願いします
兵庫県連絡先: 日本中国友好協会兵庫県連合会 〒658-0072 神戸市東灘区岡本1-14-10 岡本住宅ビル3F Tel&Fax:078-412-2228
署名集約数:642筆(兵庫扱い)目標は全国で10万、兵庫は5千筆
宮島満子さんが苦難の体験を語る
12月5日~9日に開催された第41回兵庫の「語りつごう戦争」展の「戦争体験を聞く集い」で、12月7日午後、中国帰国者の宮島満子さん(写真右、83歳)が苦難の歴史を語りました。
宮島さんは、1938年、3歳の時、一家11人が長野村開拓団に加わり「満州」の東安省蜜山県(現・黒龍江省)へ渡りました。戦争末期、長兄が現地召集され軍隊へ、1945年8月、突然のソ連軍侵攻で入植地を家族と共に脱出、途上、父親がソ連兵に連行され消息不明になり、母親と残された子どもだけで酷寒の夜間逃避行を続け、衰弱と寒さ、栄養失調のため辿り着いた収容所の学校で母親、兄弟が次々と亡くなり残った兄弟とも生き別れ孤児となりました。
その学校のグランドを見に行ったとき、山積みされた凍った沢山の死体の中に、母親の姿が現れた気がして「おかぁさん」と大声で泣いた記憶を声を詰まらせながら語りました。自分の名前は忘れないようにとずっと土に書いてはすぐ消してを繰り返してきたそうです。先に中国人に助けられていた一人の兄が学校へ来て、ここに居たら死んでしまうから中国人の家へもらわれて行くよう強く言われ、ここで死ぬと決め心で拒み続けてきた中国人の家に入り、言葉もわからないままに育てられました。宮島さんは1985年に永住帰国するまで40年間の苦難の人生を語りました。帰国後、有馬温泉で住み込みで働いていた時、仕事場で言われた言葉の意味が分からず「アホ、ボケ!」と毎日怒鳴られ、「中国人!」と罵られ差別を受けて辛かったことなどを2時間余りにわたり語りました。
中国「残留孤児」が苦難の歴史を刻んだ記念碑の建立をめざし募金への協力を訴えています。
戦争直後の混乱期、親、兄弟、姉妹と死別、生き別れ、孤児となった幼い日本人が中国人養父母に育てられ、1980年以降やっと祖国日本へ帰国しました。彼らは日本語がわからず帰国後も罵られながら非常に厳しい環境の中で生き抜いてきました。
兵庫県内に在住する中国「残留孤児」は、2015年12月に「兵庫県中国帰国者の会」(植田恒陽代表)を発足させ、活動を続けています。高齢となった「残留孤児」の方々は安住の地である兵庫県に共同墓地建設を望み募金活動に取り組んできました。同時に苦難の歴史を記念碑に刻み二度とこの様な悲劇が起こらないように願って銘文(碑文)として残したいと募金への協力を訴えてきました。
共同墓地建設の費用は街頭募金などでも訴えながら努力して何とか集めたが記念碑建立の費用には足りません。幼い時期から体験した苦難の歴史を何としても碑に刻み後世に残したいと力を振り絞って募金への協力を訴えています。ご協力頂ける方は、郵便振替用紙のご利用をお願い致します。
郵便振替口座:00980-3-236555
口座名義:兵庫県中国帰国者の会
帰国者2世にも「新・支援法」適用を!
中国「残留孤児・婦人」2世の生活支援等を求める請願署名
中国残留孤児・残留婦人2世に対する国の支援は、1世と同伴帰国した未婚の20歳未満の2世を除き全くありません。2世の多くは、30歳~50歳で帰国したため支援対象とはならず、日本語が話せず、低賃金・苛酷な労働を余儀なくされ、高齢化を迎えた今日、かつての1世同様、生活保護に頼らざるを得ない人が多くいます。中国にいる親族の冠婚葬祭や墓参等の目的で中国への渡航が2週間を超えた場合は収入認定により生活保護費が減額されるため、中国の家族との交流もままなりません。
2世の状況は、1世に対する国の引揚事業の遅れに加え、国が国費による1世と同伴帰国できる2世を、未婚で20歳未満に限定したこと、国がこれまで2世に対する有効な支援策を全く講じてこなかったことに起因するもので、中国帰国者の責任と言えるものではありません。
取扱い団体:日本中国友好協会、同福岡県連合会、同兵庫県連合会・九州地区中国帰国者二世連絡会・認定NPO中国帰国者・日中友好の会
署名用紙ダウンロードの上ご活用下さい。
署名は下記の何れかへお送り下さい。〒費用はご協力お願いします。
〒111-0053 東京都台東区浅草橋5-2-3 鈴和ビル5F 日本中国友好協会 Tel:03-5839-2140
〒810-0004 福岡市中央区渡辺通2-8-23 樋口ビル3F 日本中国友好協会福岡県連合会 Tel:092-761-0604 Fax:092-753-6343
兵庫県連絡先: 日本中国友好協会兵庫県連合会 〒658-0072 神戸市東灘区岡本1-14-10 岡本住宅ビル3F Tel&Fax:078-412-2228