不再戦平和活動

万人坑問題の講演・学習会

日本企業と日本軍が中国で1000万人を犠牲にした「万人抗」の問題を、何度も中国現地を訪れ、この問題を調査研究してこられた青木茂さんに諸事実を話して頂きます。

日時:2024年3月30日(土)午後2時(1時半より受付)

会場:国労大阪会館(JR環状線・天満駅下車)

講師:青木茂さん 平和を考え行動する会・撫順の奇蹟を受け継ぐ会・日中友好協会会員

参加協力費:800円(資料代含む)

主催:日中友好協会大阪府連合会・同堺支部

協賛:撫順の奇蹟を受け継ぐ会・関西支部

この学習会は、「アジアから問われる日本の戦争・展2024」(4月27日~28日)のプレ企画でもあります。


2・11「建国記念の日」不承認兵庫県民集会

天皇を神格化し、その政治を美化した戦前の「紀元節」を復活させ、政府は1966年に「紀元節」であった2月11日を「建国記念日」と制定しました。2月11日を「建国記念日」とすることには何の歴史的、科学的根拠もありません。「建国記念の日」は主権在民を基本とする日本国憲法の民主主義的原則に反し、歴史の真実を歪めるものです。

日時:2024年2月11日(日・祝)13:30~

会場:神戸市立長田区文化センター(JR新長田駅西へすぐ)

講演:上脇博之さん(神戸学院大学教授)

テーマ:憲法改悪と政治資金

実践報告:目からウロコの教科書カフェ

資料代:500円

連絡先:078-341-6745


米中軍事対話「信頼醸成」再開への期待

ブラウン米統合参謀本部議長と中国の劉振立統合参謀部参謀長は昨年12月21日に初のテレビ電話会談を行った。11月のバイデン・習近平首脳会談で合意していたもので、22年8月のペロシ米下院議長の台湾訪問で途絶えていた「軍事対話」の復活。米国筋によると、1月には「国防政策をめぐる一連の話し合い」が予定されているという。

緊張を高め、軍事衝突を煽ることで、兵器市場を活発化させ、自らの利益に結びつけようとする勢力があるとすれば、逆に互いの「情報交換」を進めることで「相互不信」を除き、戦争への危険性を減らそうという「信頼醸成措置」も、すでに国際社会に確率されてきた。米中ともに、積極的に戦争を始めなければならないという理由がないなか、心配なのは偶発的な衝突。特に最近、航空機同士の異常接近などが伝えられている状況は、軍部同士の話し合いは欠かせない。まして1月13日には4年に1度の台湾総統選が実施される中での米中協議だ。

1月13日の総統選は、蔡英文現総統の路線を引き継ぐ与党・民主進歩党(民進党)候補の頼清徳氏と、野党・国民党の侯友宜・新北市長、台湾民衆党の柯文哲・党主席の三つ巴選挙の様相だ。もちろん、焦点は新総統になって「大陸との距離感」がどうなるか、だが、すでにできあがっている米中・中台の関係を大きく変えなければならない要素は見当たらない。

米中共同声明で、米国は「中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府」と認め、「台湾は中国の一部であるという中国の立場」を「認識」する状況は変わらない。また、実体的には、中台の経済関係は、すでに台湾の輸出先は3割が中国本土、輸入元は2割が中国本土と依存関係を強めているし、中国の貿易相手の第1位は米国で、輸出では2割近くを占めている、という。結局、いま、米中戦争など起こりようもない。「麻生発言」のような「妄言」で、南西諸島の軍事強化を図ったり、ミサイルを持ったりする日本政府の姿勢事態が問われるのが米中軍事協議なのだ。

もう一つ期待がある。イスラエルに対する米国の影響力と、ロシアに対する中国の影響力だ。膠着状態のウクライナ戦争は、ウクライナでゼレンスキー大統領への支持が減少し、ロシア・プーチン大統領は大統領選で「背水の陣」。中国がプーチン大統領を、米国がネタ二アフ首相によって国際法も人道も振り捨て「ジェノサイド」(国家あるいは民族・人権集団を計画的に破壊すること)を続けるイスラエルを説得、「二国平和共存」の道を作れるかどうか。2024年年頭に当たって、米中への期待は大きい。(丸山重威・ジャーナリズム研究者、日中友好新聞2024年1月15日号中国レーダーより)


第46回兵庫の「語りつごう戦争」展―「新しい戦前」にさせないため、歴史に学ぶ

1941年12月8日の太平洋戦争開戦を忘れないために、二度と戦争の惨禍を繰り返さないために、第46回兵庫の「語りつごう戦争」展が開催されます。会場へ足を運んで頂き、戦争と平和について考える場にしましょう。

開催期間:2023年12月6日(水)~10日(日)

午前10時~午後6時、6日は午後1時~、10日は午後4時半まで

会場:妙法華院(神戸高速鉄道「新開地」西口を上がり南すぐ)

入場無料

「資料展示内容」

●戦争する国 ●戦時中のくらし ●戦争と子ども・学校 ●子どもコーナー●平和色紙展 ●特別展示:戦争するための財源(戦時国債)について展示します。

「戦争体験を聞くつどい」

12月7日(木)「神戸大空襲の記憶」―川端泰子さん

12月9日(土)「神戸・四国と2度の空襲被災」―多賀清幸さん

12月10日(日)「父母の満蒙開拓青少年義勇軍(隊)に加わって―兵頭和子さん

時間:午後1時30分~ 会場:妙法華院3F会議室

「12・8のつどい」

とき:2023年12月8日(金)午後1時30分~

ところ:妙法華院3階会議室

講師:市川禮子さん(社会福祉法人きらくえん名誉理事長)

テーマ:高齢者介護の理念と取り組み~高齢者ケアの現場から戦争と平和を考える

参加無料

◆会場へお越しの際は必ずマスク着用お願いします!

主催:兵庫の「語りつごう戦争」展実行委員会(☎090-5896-6048、上野さん)

後援:神戸市教育委員会/毎日新聞神戸支局/読売新聞神戸総局/朝日新聞神戸総局/神戸新聞/サンテレビジョン/ラジオ関西


岸田首相の靖国神社への真榊奉納と閣僚らの参拝に対する抗議声明

協会本部は10月19日、靖国神社秋季例大祭にあたっての岸田首相の真榊奉納と閣僚らの参拝に対する抗議声明を発表し、首相官邸や報道機関に送りました。

岸田首相による靖国神社への真榊奉納と閣僚らの参拝に抗議する

靖国神社の秋季例大祭にあたり、岸田文雄首相は「内閣総理大臣」の肩書で靖国神社に真榊を奉納し、西村康稔経済産業相、高市早苗経済安全保障相、新藤義孝経済再生相の3閣僚と超党派の国会議員96人が参拝した。

靖国神社は日本軍国主義のアジア太平洋への侵略戦争に国民を動員する役割をはたし、侵略戦争を推し進めたA級戦犯を合祀し、今もなお侵略戦争を美化・正当化し宣伝する施設となっている。この靖国神社への供物の奉納や参拝は、政教分離を定めた憲法に違反する行為であり、日本国民を代表する政治家が、国際社会が共有する歴史認識に真っ向から対立する誤った歴史観を持っていることを内外に示す結果となっている。

高市経済安全保障相は参拝後に、「国策に殉じた方の御霊に尊崇の念を持って感謝の誠をささげた」と述べたが、合祀されているA級戦犯にも、「感謝の誠をささげた」と理解せざるを得ないことから、戦争の反省と日本の侵略の犠牲となった数多のアジア諸国民に対する哀悼の気持ちは一切感じられない。また、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の逢沢一郎副会長は「悲惨な戦争の記録や記憶を風化させてしまうようなことが決してあってはならない」「平和の尊さを次の世代にしっかりと語り継いでいくことが私たちの使命だ」と述べたが、そうであれば、言語に絶する惨禍を与えたアジア諸国民の被害と日本軍国主義の加害責任にしっかりと向き合うとともに、原爆、空襲、沖縄戦、満蒙開拓団、治安維持法弾圧犠牲者をはじめ、犠牲となった無辜の国民の体験を後世に語り伝えるために、平和教育にこそ力を注ぐべきである。

日本中国友好協会は、侵略戦争の美化・正当化と宣伝につながる靖国神社への真榊の奉納と参拝に強く抗議するとともに、国際社会が共有する歴史認識を重視し、締結45周年の節目を迎えた日中平和友好条約の精神のもとに、歴史に学び、アジアと世界の平和と安定のために平和国家としての役割を果たすことを日本政府に強く求めるものである。

2023年10月19日 日本中国友好協会


9・18柳条湖事件92周年に向けて

今から92年前の1931年9月18日、柳条湖事件が勃発しました。その後、足かけ15年にもわたる日本の中国侵略戦争の発端です。

1931年のこの日、関東軍の高級参謀・板垣征四郎大佐や作戦主任参謀・石原莞爾中佐らが9月18日夜、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖の満鉄線上で爆薬を爆発させ、これをきっかけに中国東北郡兵営(北大営)を攻撃、戦争を始めた事件です。日本では、この戦争を一般に「満州事変」と言っていますが、中国では「九一八事変」と呼ばれています。

日本中国友好協会は「二度と悲惨な侵略戦争を繰り返さない」との不再戦平和の誓いから、毎年、「盧溝橋事件」の7月7日から「柳条湖事件」の9月18日までを「不再戦平和友好期間」として不再戦平和活動に重点的に取り組んでいます。(日中友好新聞より、画像は百度中国


強制連行・強制労働による「中国人犠牲者を慰霊する集い」

太平洋戦争末期、日本政府は国内の労働力不足を補うため中国大陸から1943年~1945年に38,939人の中国人捕虜や農民などを連行し全国135事業場で劣悪な環境の下で過酷な労働を強いて全国で6,834人の犠牲者が出ました(中国人強制連行事件資料編纂委員会編「草の墓標」による)。

兵庫県内では、神戸港や相生の造船所に連行された中国人が、神戸港で17人、相生の播磨造船所で28人が亡くなっています。戦後、1950年に日中友好協会が創立され、中華人民共和国建国(1949年)後国交を絶たれ中国からの日本人引き揚げが中断されていましたが、1952年12月、中国紅十字会と日本側帰国三団体(日本赤十字社・日本中国友好協会・日本平和連絡会)との協力で邦人の帰国が始まりました。

帰還する日本人と交換するように、中国人犠牲者の遺骨送還が始まり、1953年2月に帰国三団体のほか14団体により「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」を結成、強制連行事件の調査と遺骨収集が全国で行われ、1958年まで8回にわたり2,745名に相当する遺骨、及び1964年の第9次で19箱の遺骨が中国へ送還されました。兵庫県からも1958年の第8次遺骨送還船で相生の市営墓地から持ち帰った遺骨3柱を送還しました。

私たちは、二度と戦争の惨禍を繰り返さないためにこの悲惨な歴史の事実を語り伝えています。戦争に勝者はありません。国家間の紛争は如何なる困難があっても武力行使ではなく外交による話し合いで解決するべきと考えます。9月3日の「中国人犠牲者を慰霊する集い」にご参加頂き共に犠牲者追悼と平和への願いを共にしましょう。

日時:2023年9月3日(日)13:30~16:00

会場:宝地院(兵庫区荒田町)大学病院前バス停を西へ2筋

「犠牲者追悼」13:30開始 本堂にて 読経・焼香

「記録映像『苦幹』視聴」14:00~ 地階集会室

この映像について解説した日中友好新聞5月15日号を参加者にお渡しします。(解説記事は石島紀之・フェリス女学院大学名誉教授)

ユーチューブで放映中の1940年8月の重慶大爆撃を地上から撮ったカラー映像を視聴します(語りは英語、字幕は中国語です)。

参加費(お供え料として)500円

主催:日本中国友好協会兵庫県連合会 ☎078-412-2228


尼崎市と加古川市で「平和のための戦争展」

異常なほどの猛暑が連日続く今年の8月、協会が加盟する実行委員会が主催する「平和のための戦争展」が尼崎市と加古川市で開催されました。

尼崎平和のための戦争展

8月18日~20日、尼崎市立中央北生涯学習プラザでは「新しい戦前にさせない、平和憲法とともに」をテーマに第28回尼崎平和のための戦争展」が開催。 8月25日~27日、東播磨生活創造センターでは「再び戦争への道を歩まぬために―平和のバトンを次世代へ―」をテーマに第24回加印平和のための戦争展が開催されました。

加印平和のための戦争展

両会場とも資料展示をはじめ映画上映や記念講演会など幅広い角度から中国への侵略戦争や空襲被害、広島・長崎の原爆被害など加害、被害の両面から戦争の悲惨さを写真や遺品などの資料展示を通じ、二度と過ちを繰り返してはならない、平和の大切さを次世代へとつなぎ、平和憲法の重要性を訴えています。

2023年「平和のための戦争展」県内各地で

1945年の日本敗戦から79年が経ちました。戦後生まれの人が大半を占め、戦争体験を聞く機会が極めて少なくなる中で、あの戦争がなぜ起こったのか、戦時の国民生活は?など資料や記録から戦争の実態を少しでも知ろうと毎年県内各地で「平和のための戦争展」が開催されています。戦争の歴史を知り、二度と戦争への道を歩まないないために悲惨な歴史から学ぶ機会にしましょう。す。

三木「平和のための戦争展」資料展示と平和の集い

日程:2023年7月31日(月)~8月6日(日)9:00~17:00(最終日:15:30まで)

会場:三木市役所・みっきぃホール

連絡先:080-3869-3661(田中)

第24回「尼崎平和のための戦争展」資料展示・映画上映・戦時体験談

日程:2023年8月⒙日(金)~20日(日)9:00~18:00(最終日は16:00まで)

会場:尼崎市立中央北生涯学習プラザ1F、2F

連絡先:090-4902-8398(松岡)

第24回「加印平和のための戦争展」展示・講演会・映画、ビデオ上映会

日程:2023年8月25日(金)9時~8月27日(日)午後4時

会場:加古川総合庁舎1階「かこむ」

連絡先:080-6158-2371(菊本)

展示場は何れも入場無料

※参観される場合は出来るだけマスク着用お願いします。

主催:各地実行委員会


―軍事的な対抗ではなく、平和的な外交努力による国際紛争の解決を―

ロシアの侵略によってウクライナの市民が犠牲になっているなかで、日中友好協会は、日本軍国主義が推し進めた中国侵略戦争で日本軍の兵士たちが加害に走る鬼と化した歴史的事実をふまえ、戦争は多くの兵士の人間性を奪ってしまうこと、そして戦争で犠牲を強いられるのは常に罪のない市民であることを訴えています。

今年は日中平和友好条約締結45周年の節目にあたります。1978年の日中平和友好条約で日中両政府は、平和五原則と国際連合憲章の原則に基いて「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」と約束しました。ロシアのウクライナ侵略戦争をはじめとした全ての紛争を平和的に解決するために、国際社会が日中平和友好条約の精神に立ち返ることを強く訴えます。日中両政府がアジアと世界の平和に貢献する協力関係を築き、国際紛争の平和的な解決のために協同して努力を重ねることを強く訴えます。


中国湖南省「廠窖大虐殺」80年で追悼式

これまで協会のHPで何度か紹介している中国湖南省南県廠窖で1943年5月に起こった日本軍による住民大虐殺から今年で80年となります。現地では毎年5月9日に追悼式典を開催し犠牲者を追悼しています。

事件から80年目の5月9日、廠窖惨案遇難記念館追悼碑前に地元住民などが集まり犠牲者追悼の記念式典が開催されました。その状況は現地を取材した「しんぶん赤旗」北京駐在記者が5月10日の紙上で紹介しています。記事には式典に参加した住民の声が紹介されています。「虐殺を行ったのは一部の日本人であり、全ての日本人を恨むことは間違っている。世界の平和は皆が望んでいることだ」「過去の歴史を忘れず、平和を大切にすることを子供たちに伝えていきたい」。(しんぶん赤旗5月10日付より)


中国を脅威と見なさず、対話による平和構築を!

沖縄県の県議会要請団は4月24日、防衛省を訪れ、日中両国間の緊張緩和と平和構築に向け、国に対し外交による対話を積極的に取り組むことを求める意見書を木村次郎防衛政務官に提出しました。意見書は、沖縄県議会が3月30日に賛成多数で採択したものです。

内容は、安保3文書に盛り込まれた敵基地攻撃能力保有について、「相手国の報復を招き沖縄が標的となる不安が県民に広がっており、軍事的な抑止ではなく外交による平和構築に取り組むこと、日中間で確認された諸原則を順守し両国の友好関係を発展させること」を要請しています。

当山県議(団長)は意見書の意義について、「台湾有事の名の下に、再び戦場になるのではと危惧する県民が多い。絶対に繰り返してはいけないと訴えなければいけないと」と語っています。


自衛隊は米軍指揮下に入り一体となり攻撃を行う

米国の統合防空ミサイル防衛(IAMD)に参加するため日本政府は「敵基地攻撃能力」保有を閣議決定、1000~3000㎞にも及ぶ長距離誘導弾、マッハ5以上の極超音速滑空弾の開発、研究や1600㎞も飛翔する長距離巡行ミサイルの輸入を目指しています。IAMDは対中国包囲網を敷くため、同盟国と一体で構築するミサイル防衛の仕組みで、相手のミサイルを打ち落とす作戦と敵基地攻撃作戦を「攻守一体」で進めるものです。

攻撃対象はミサイル基地だけではなく、相手国の指揮統制機能、飛行場、港湾、鉄道、道路など社会基盤に至るまで全てが対象となっています。米軍と同盟国の軍隊が切れ目ない融合した軍隊として一体となって作戦を行うとしています。日本の自衛隊が独自の指揮統制の下で行動することはありません。米国が先制攻撃の戦争を始めれば自衛隊は米軍と一体となり攻撃を行うことになります。

米国が仕掛けた戦争に巻き込まれ、相手から報復攻撃を受け、日本の国土が焦土化する危険が現実のものとなります。偶発的な衝突でも起これば日本に戦火を招くことになります。軍事対軍事の危険な対応ではなく日本、中国、米国も包み込む平和の包摂的外交の枠組みづくりを追求し徹底した対話の努力で問題の解決を図ることを目指すべきではないでしょうか。


関東大震災100年―中国人虐殺事件を語る

来年、2023年は関東大震災から100年となります。その節目の年を迎えるにあたり、大震災時の中国人虐殺事件について、王希天さんの殺害についても林伯耀さんからお話を聞きます。

林さんは中国人強制連行の問題にも深く関わり、「(日本の)指導者は、今に至るもその事実を素直に認めようともしないし、謝罪もしない。これでは異境に死んでいった貴方がたは永遠に目をつぶることもできない。これは、死者の恨(ハン)、生者の恥だ  私は中国人としてではなく、この地上に生きる一人の人間として恥ずかしく思う・・・」と語っています。この言葉は、強制連行の犠牲者のみならず、日本の植民地支配、侵略戦争での犠牲者すべてに対して、まず日本人が自らのものとして胸に刻まなければならない言葉です。歴史の事実を深く知り、死者の恨(ハン)、生者の恥を雪ぐために一人の人間として何ができるか、考え、行動することが私たちに求められています。

日時:2022年12月8日(木)午後6時30分~8時30分

会場:神戸学生青年センター「ウエスト100」

(阪急六甲駅下車、線路南を西へ100m)

お話し:林伯耀さん 神戸・南京を結ぶ会副代表

参加費:1,000円

主催:神戸・南京を結ぶ会(代表:宮内陽子)

後援:神戸学生青年センター


第45回兵庫の「語りつごう戦争」展

毎年、太平洋戦争開戦の12月8日を忘れないために戦時資料や戦時体験を語り継いでいる兵庫の「語りつごう戦争」展の会は45回目となる今年の「戦争展」を下記の通り開催します。

とき:2022年12月7日(水)~11日(日)10時~18時

7日(水)は午後1時~、11日(日)は午後4時まで

ところ:妙法華院(神戸高速「新開地」駅西口上る南すぐ)

◆展示内容:戦争する国・戦時中のくらし・戦争と子ども、学校・子どもコーナー(展示は2F)

◆戦争体験を聞くつどい (3F会議室)

・12月7日(水)13:30~ 小牧英夫さん「元集団疎開児が戦争を想う」

・12月9日(金)13:30~ 淡路信子さん「77年前の私に出会って」

・12月10日(土)13:30~ 中野照雄さん「父の徴兵と国民のくらし」

・12月11日(日)13:30~ 上野祐一良さん「8月6日の空襲で家焼滅」

「12・8のつどい」13:30~ 3F会議室

講師:市川禮子さん(社会福祉法人きらくえん名誉理事長)

テーマ:いのちの足音―高齢者ケア野」現場から戦争と平和を考える―

参加無料

主催:第45回兵庫の「語りつごう戦争」展実行委員会

連絡先:神戸市兵庫区永沢町4-5-8 妙法華院内

☎090-5896-6048(上野)078-575-2608(妙法華院)

後援:神戸市教育委員会/毎日新聞神戸支局/読売新聞神戸総局/朝日新聞神戸総局/神戸新聞/サンテレビジョン/ラジオ関西

7、引揚者のその後

日本に帰還した引揚者は、その後も日本社会で苦難の生活を強いられました。復員した軍人は故郷・家族の元に帰ることができましたが、家族ぐるみで「満州」に移住した引揚者(民間人)には、帰るべき家族もありません。「満州」で得た財産・資産もすべて失い、ほとんど無一文での帰国で、さしあたり住む家屋すらありません。敗戦後の混乱の中、引揚者には就職先もほとんどなく、路上で行き倒れになる人もいました。日本政府は引揚者住宅や臨時収容施設を建設しましたが、ほとんど「焼け石に水」でした。1950年になっても、住居を確保できていない引揚者は約37万世帯、98万人にのぼっていました。

日本政府は食糧難の解決を目指し、緊急開拓事業として全国各地で農地開拓を進め、「満州」からの引揚者を多数投入しました。1950年までに日本に引き揚げた満州開拓民の約4割が、日本国内で再び開拓農民となって未開墾の土地に入植したのです。ただし、こうした入植地の多くは農業に適した土地ではなく、土壌や水利の問題、自然災害等で開墾・定住は困難を極めました。緊急開拓事業をはじめとする政府の援護事業のほとんどは、失敗に終わったと言われています。

最終回:8、引揚船に乗れなかった人々のその後(残留日本人)は帰国者支援のページで紹介します。

 

6、引揚事業とその中止(解説文Ⅵ)

1946年5月、アメリカ軍と中国国民党・中国共産党の協議の結果、ようやく日本人民間人の引揚事業が開始され、遼寧省の葫蘆島から引揚船が出港しました(前期集団引揚)。そして1948年までに100万人以上が日本に帰還することができました(注1)。この時の様子を描いたのが「一九四六」絵画展の作品です。引揚事業はその後、中国における内戦の激化のため、一時中断されました。

1949年、内戦が終結し、中華人民共和国が成立しました。しかし東西冷戦の下、日本政府は外交権を回復した1952年以降も中国政府を正式の政府として承認しませんでした。中国政府は1952年、中国に残留する日本人の引揚を援助する意向をラジオ放送で表明しましたが、日本政府は応じませんでした。そこで日本の民間団体(日本赤十字社・日中友好協会・日本平和連絡会)と中国紅十字会が協議し、1953年に民間レベルで集団引揚(後期集団引揚)を再開しました。これにより、約3万数千人が日本への帰還を果たしました。

ところが1958年5月、長崎市で開催されていた中国切手展の会場で、日本人の右翼青年が中華人民共和国の国旗をひきずり降ろす事件が発生しました。日本政府は「外国国章損壊等」の罪を適応せず、犯人を釈放しました。そこで日中関係は悪化し、6月に中国紅十字会は「残留婦人の一時帰国への援助を暫く停止」する旨、発表しました。これは日本人の引揚事業の停止通告ではありませんでしたが、日本政府は引揚事業自体を打ち切りました。10月、中国紅十字会は集団引揚を援助する用意があるとラジオ放送で表明しましたが、日本政府はこれも無視し、多数の残留日本人を取り残したまま、引揚事業は終結しました。

注:軍人・軍属を除く民間人の中国東北地方からの引揚者は、「満州」から100万3609人とされる。

「残留婦人の一時帰国への援助を暫く停止」する旨の中国紅十字会電報が届いた翌日付の日本政府の「極秘」文書には、日本の厚生省が7月の引揚船を「今次引揚の最終船」とすることを予定しており、それに向けて「最近の日中関係」を「あまり目立たず自然な形で利用し得る機会」と記されている。(南誠「中国帰国者をめぐる包摂と排除の歴史」社会学」明石書店、2016年)。画像はwikipediaより


王希奇「一九四六」絵画展で掲示された解説文Ⅴ

5、引揚の遅延・難民収容所

生き延びた難民は、中国東北地方各地に設けられた難民収容所にたどりつきました。しかし、直ちに引揚・帰国することはできませんでした。なぜなら日本政府が日本人難民を帰国させず、現地に定住させる方針をとったからです。ソ連軍の進攻当日(8月9日)、日本軍大本営は関東軍に「戦後将来の帝国の復興再建を考慮して、「なるべく多くの日本人を大陸の一角に残置」する命令を出しました。敗戦後も、1945年8月30日、日本の駐「満州国」大使は、日本政府に「流民化と餓死者凍死者続出」の見通しを伝え、「婦女子病人を先に帰国を要するもの(推定約80万人)の内地送還」を電報で懇願しましたが、日本政府は改めて現地定着を指示しました。アメリカ軍はじめ連合軍総司令部(GHQ)や現地を管轄統治していたソ連軍も、日本人民間人の帰還には無関心でした。

そこで難民は、零下30度以下にもなる極寒の中国東北地方の難民収容所で越冬せざるを得ませんでした。食糧・衣類・燃料・薬品は欠乏し、多くの難民が餓死・凍死・病死しました。敗戦前後、「満州」で死亡した日本人約24万5000人(うち農業開拓移民が約7万2000人)と推定されています。これは、東京大空襲・広島の原爆・沖縄戦の被害者数を大きく上回り、まさに戦争と戦後処理の杜撰さがもたらした悲劇でした。

難民収容所での生活は、ときには数年間にもおよびました。この間、日本人難民が命をつなぐことができた理由の一つに、やはり食糧や宿舎、仕事の提供等、中国人民衆の支援がありました。難民収容所から中国人家庭に引き取られ、「残留孤児/残留婦人」として生き延びた日本人もいます。


京都・嵐山「日中不再戦碑」前の集い

日中友好協会京都府連合会は9月24日(土)、嵐山・中の島公園に建つ日中不再戦碑前で集いを開催しました。主催者を代表し、京都府連合会の宇野木洋会長があいさつ、「戦後70数年経ったが、現在は新たな戦前のような状況にある。再び戦争を許してはなりません」と訴えました。穀田恵二衆議院議員が激励のあいさつを行い、清水寺の大西皓久師が講話で、話し合いによる問題解決の重要性を強調しました。「日中不再戦碑」は1968年、京都府民の平和の願いを込めて建立されました。「日中不再戦」の文字は元清水寺貫主・大西良慶師(1875年~1983年)が碑建立に際し実物大の文字を揮毫され碑に刻まれたものです。


王希奇「一九四六」絵画展で掲示された解説文Ⅳ

4、逃避行・難民流浪

ソ連軍が進攻した戦場に放置された日本人移民は大混乱に陥り、数か月間にもおよぶ凄惨な逃避行を余儀なくされました。ソ連軍進攻直前の7月、青壮年の男性はほぼ全員、徴兵(「根こそぎ動員」)されていたので、現地に残されていた日本人は女性・子ども・高齢者・病人ばかりでした。関東軍は撤退の際、ソ連軍の追撃を阻むため、橋や鉄橋を破壊していたので、日本人民間人の逃避行はいっそう困難になりました。

ソ連軍は、日本人の非戦闘員、とくに女性や子どもにも容赦なく爆撃・銃撃を加えました。多くの日本人が逃避行の途上、ソ連軍に殺され、または集団自殺へと追い詰められました。(麻山事件・佐渡開拓団跡事件・葛根廟事件など多数。注1)。ソ連兵は多くの日本人女性を拉致・強姦し、その後、殺害・遺棄しました。現地中国人の「匪賊」による襲撃もありました。食料もすぐに底を尽き、多くの人が路上で餓死・病死しました。逃避行の足手まといになる乳幼児や高齢者は、肉親の手で殺されたり、路上に置き去りにされたりしました。

こうした凄惨な逃避行の中で生き延びることができた理由の一つは、中国人民衆の支援です。中国人から、食糧や水をもらって命をつないだ日本人難民は少なくありません。死に瀕した日本人の子どもや女性の一部は、中国人の家庭に引き取られ、後の「残留孤児・残留婦人」として生き延びました。(続く)

(注1)麻山事件 1945年8月12日、現在の黒龍江省鶏西市にて、ソ連軍の攻撃により、421名が殺害・自殺。

佐渡開拓団跡事件 1945年8月27日、現在の黒龍江省七台河市にて、ソ連軍の攻撃により、1464名が殺害・集団自殺。

葛根廟事件 1945年8月14日、現在の内蒙古自治区興安盟にて、ソ連軍の攻撃により、千数百名が殺害・自殺。


京都嵐山「日中不再戦」碑前の集い

今年は1972年9月29日に日本と中国が国交を樹立してから50年の節目の年です。1949年に中華人民共和国が成立しますが、西側の多くの国々は中華人民共和国を中国を代表する唯一の政府として認めず「二つの中国」の立場に立って、中華人民共和国の国連加盟を阻んでいました。日本政府も中華民国(台湾)との間に「日華平和条約」を結んで台湾が中国を代表する唯一の政府であるとする立場をとってきました。

しかし周恩来首相はバンドン会議において「平和五原則」を表明して、政治社会制度の異なる国々との友好交流を唱え、日本でも日中民間貿易を推進するなど、国交回復を求める国民世論が高まりました。こうした世論を背景に1972年、田中角栄首相が訪中し周恩来首相との間で日中共同声明を発表しました。

声明は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを認め、国連憲章の原則に基づいて「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないこと」を確認しました。しかし今日、台湾海峡では軍事衝突の危機が高まり、日本政府は防衛予算のGDP2%を掲げるなど大幅な軍備増強に舵を切っています。

私たちはこうした東アジアの情勢を深く憂慮します。日中国交正常化50周年の今こそ、日中共同声明の原則と理念に立ち返って、次の50年を展望した平和共存と相互発展の基盤を築いていく必要があります。日中国交回復50周年の節目にあたって私たちは改めて「日中不再戦」の決意を固めたいと思います。

「日中不再戦」碑前の集い

日時:2022年9月24日(土)午前11時~12時

場所:京都・嵐山中ノ島公園内「日中不再戦」碑前

講話:大西皓久(清水寺)、あいさつ:穀田恵二衆議院議員

主催:日本中国友好協会京都府連合会 ☎075-256-2764



王希奇「一九四六」、解説文Ⅲ

3、ソ連軍侵攻と日本敗戦

日中戦争が本格化すると、関東軍は急速に弱体化していきました。とくに1943年以降、日本の戦局は悪化し、関東軍から兵力が大幅に抽出され、南方や内地に転用されました。そこで1944年、日本軍大本営は、来るべきソ連軍侵攻を国境で阻止することを断念し、翌年1月には関東軍の主力を朝鮮国境付近まで後退させました。

一方、ソ連はアメリカ・イギリスとの協定に基づき、1945年4月に日ソ中立条約の不延長を通告し、ソ連軍による「満州」進攻は時間の問題となりました。日本軍大本営は同5月、ソ連軍進攻の際は「満州の四分の三」を戦場にして持久戦を行う作戦命令を出しました。

しかし、こうしたソ連軍進攻の切迫、関東軍の弱体化・作戦変更の情報は、現地の日本人民間人、とくにソ連との国境付近に住む農業移民には一切知らされませんでした。それどころか1945年8月2日、関東軍報道部長は「関東軍は盤石だ。国境開拓民諸君は安んじて生業に励むがよろしい」と」ラジオで発表しました。

1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、「満州」に進攻しました。日本軍大本営は翌10日、「満州全土放棄も可」の命令を出し、関東軍はいち早く撤退しました。農業移民などソ連国境付近の日本人は、関東軍の撤退のための「静謐(注1)確保に必要な「生きた案山子(かかし)」として、ソ連軍進攻の最前線に無防備で置き去りにされました。つづく(ソ連軍侵攻を示す画像はWikipediaより)

(注Ⅰ)「静謐」とは、混乱なく落ち着いた静かな状態。


「一九四六」解説文Ⅱ

2、日本人移民・「満州農業移民」

日本からは軍人だけでなく、民間人も多数、「満州国」に移住し、1945年当時、「満州」に住んでいた日本人は、約155万人にも達しました(注1)。

日本政府は1936年、七大国策の一環として、20年間に100万戸(500万人)の日本人を送り込む「満州農業移民百万戸移住計画」を策定しました。これは農業生産だけでなく、ソ連と「満州国」の国境防衛も目的としており、ソ連との国境付近に多数、入植しました。

当時、日本国民の多くは農業移民として「満州」に渡ることに不安を抱き、また日本国内でも労働力が不足していたため、応募者数は政府の計画・目標を大幅に下回りました。そこで政府は、半ば強制的に応募者を動員し、1945年の敗戦時までに約27万人の農業移民を送り込みました。

日本人の農業移民は「開拓団」として集団で入植しましたが、その入植地の多くは、すでに中国人が耕していた農地を、ただ同然の値段で強制的に買収したものでした。「開拓」とは名ばかりの農地収奪です。農地を奪われた中国人は困窮して流浪し、または日本人移民の下で小作人・労働者として劣悪な労働条件で働くしかありませんでした。怒った中国人農民による武装蜂起(土龍山事件)など(注2)も頻発しました。

(注1)大連・旅順地区は日本の租借地で厳密には「満州国」には含まれないが、事実上、傀儡政権の「満州国」からの租借であった。

(注2)土龍山事件とは、1934年3月、日本人に土地を強制買収された三江省依蘭県(現在の黒龍江省樺南県)の中国人農民約6700人が謝文東をリーダーとして東北民衆群を組織し、武装蜂起した事件。(つづく)

※画像は当会が別途挿入したものです。


王希奇「一九四六」大型絵画解説文Ⅰ

8月31日~9月4日、神戸市の原田の森ギャラリーで開催された「一九四六」絵画展は、王希奇魯迅美術学院教授の大作「一九四六」をはじめ同氏の作品14点が展示され5日間で約1900人が会場を訪れました。同時に「一九四六」の解説文が展示され、非常にわかり易い内容で、参観者から「冊子はありませんか」「ぜひ研修会で使用したい」などの要望が多数寄せられました。

展示された解説文は、浅野慎一摂南大学教授で中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会世話人代表が書かれた文章で、日本の中国侵略の始まりから葫蘆島からの引揚船に乗ることが出来ず中国に取り残された人々のその後、現在に至るまでをわかりやすく8項目に分けて解説した文章です。このページで連続8回に分けて紹介させて頂きます。写真、画像は当会が別途挿入したものです。

Ⅰ、「満州国」と日中戦争

1931年9月18日、関東軍(日本陸軍の「満州」駐留部隊)は、奉天(現在の遼寧省瀋陽市)郊外で鉄道を爆破し、これをきっかけとして中国東北地方全域の軍事占領に踏み出し、主要都市を制圧しました。1932年、関東軍は傀儡国家・「満州国」を樹立、日本政府もこれを正式に承認しました。

「満州国」は、日本の明らかな傀儡政権(注1)であり、政治の実権は日本、特に関東軍が握っていました。その支配の下、中国人民衆は深刻な被害を受けました。食料や衣類は「満州国」に移住した日本人に優先的に配給され、多くの中国人民衆は飢餓・栄養失調に苦しみました。零下30度を下回る極寒の下、衣服もこと欠き、凍死した中国人もいます。「労工(労務者)」として徴用され、炭坑などで苛酷な労働を強制され、亡くなった中国人も少なくありません。

中国人民衆の中では、「満州国」や日本の支配に抵抗する「反満抗日」運動が激化しました。1937年には日中戦争が始まり、日本・中国両軍の戦闘も本格化しました。中国政府はいうまでもなく「満州国」を承認せず、今日に至るまでこの傀儡政権を「偽満」と呼んでいます。

(注1)傀儡は、「操り人形」。傀儡政権は、実際には他国の権力によって統制・指導されている、形式的にのみ独立した政


日中友好ブックレット3を発行

日本は中国でなにをしたか―侵略と加害の歴史―

 日本中国友好協会は、中国をはじめとした国々への侵略戦争を再び繰りかえさせないために、不再戦平和運動を柱としています。このブックレット3を多くの方に読んで頂き、学びあって、日本が再び戦争への道を歩まないようにするための一助になればと願っています。学習資料としても最適ですご活用下さい。

このブックレット3には、被害者や加害兵士の証言をはじめ、年表や写真多数を掲載、兵庫県連合会が2014年に2度現地を訪問し、のべ8人の被害者や研究者から証言を聞き、虐殺があったと言われる現場の見学や現地の資料、日本の防衛庁戦史室の資料などを調べ紹介した「廠窖大虐殺事件」の記事が紹介されています。中国国民党の敗残兵、住民約3万人が虐殺されたというこの事件は、日本では殆んど知られておらず、日本軍が中国湖南省北部で行った江南殲滅作戦(1943年4月~6月)の第1期作戦の中で起こった事件で太平洋戦争期最大の虐殺事件と言われています。

定価:600円+税 A4版・80ページ 送料164円(ヤマトDM便)

笠原十九司(都留文化大学名誉教授)監修

日本中国友好協会編 発行:本の泉

申し込みは 日中友好協会兵庫県連合会

078-412-2228   E-mail:okmt50@nicchu-hyogokenren.net