中国残留日本人・中国帰国者の人生が問いかけること

日本を生きる―冷たい祖国

日本政府の引揚事業打ち切り・帰国制限政策によって、中国残留日本人の日本への帰国は大幅に遅れました。ようやく帰国できた時、残留孤児でも多くは40-60歳代、残留婦人は60歳以上になっていました。

しかも日本政府は、残留日本人問題を私事・自己責任とみなしているため、帰国後の公的な自立支援も、短期間の日本語教育を除けば、ほとんどありません。そこで残留日本人は、日本社会で深刻な困難に直面せざるを得ませんでした。比較的若く帰国できた残留孤児も就職は難しく、不安定な不熟練労働・非正規雇用の職にしかつけませんでした。職場では、低賃金・長時間の重労働、倒産や解雇、労災事故が蔓延していました。「中国人」とみなされ、差別も頻発しました。

帰国が遅れたため、年金も納付期間が足りず、ほとんどありません。そこで、帰国した残留日本人の8割以上は生活保護を受給し、最底辺の貧困層になりました。「1日2食にして、遠くの安売り店で賞味期限切れ寸前の食品を買っているが、高齢になって遠くまで行くのはつらい」などの声が聞かれました。生活保護を受けると、外出・買い物も行政に監視・指導され、自由を束縛されます。中国への訪問も事実上、禁止され、「命の恩人の養母の看病に行けず、死に目にも会えなかった。墓参も行けないのはあまりに辛い」と語る残留孤児もいました。

就職・交通機関の利用・行政手続き・災害情報の入手・買い物など、生活のあらゆる場面で日本語の困難にも直面しました。特に医療現場では「病状も説明できず、医師の説明もわからない」ため、手遅れになった人も少なくありません。近隣住民とのコミュニケーションもとれず、地域でも孤立を深めていきました。

日本への永住帰国は、残留日本人・中国帰国者にとって“問題の解決”ではなく、新たな苦難の始まりでした。残留日本人の多くは、日本を「残留日本人を放置した冷酷な国」と感じています。それは、長年にわたって中国に放置しただけでなく、日本への帰国後も一貫して放置され続けてきたという実感に根ざしています。(摂南大学現代社会学部学部長・特任教授 浅野慎一、日中友好新聞に連載中⑥より)

2019年3月26日、帰国者の公墓・記念碑が竣工(神戸市垂水区・舞子墓園)
中国帰国者の記念碑(神戸市垂水区・舞子墓園)

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