中国残留婦人二世が「文革」時の体験を語る

酷寒の地へ下放し苛酷な労働を5年余り務める

8月30日午後、日中友好協会西宮支部総会で中国残留婦人二世の河野文江さんが記念講演しました。中国人で元満州警察官の父親と残留日本人の母親の間に1951年9月、中国黒竜江省ハルビンで生まれた河野文江さんはこれまで体験した苦難の人生を語りました。

「1966年、私が15歳の時、大規模な政治闘争が始まりました。それは巨大な嵐で「文化大革命」の始まりでした。私はその理由もわからないままに紅衛兵となりました。学校は授業停止状況で、毎日「大字報」(壁新聞)を書いたり、「走資派」(資本主義の復活を目指す実権派)を糾弾する批判大会に参加していました。機会があって、ぎゅうぎゅう詰めの夜行列車に仲間と共に乗り込み北京の天安門広場へ向かいました。そこで天安門上の毛沢東に接見したときは胸がドキドキしました。

その後、上海を見学しハルビンへ戻りました。当時、革命は全国に広がっていました。あらゆるところで紅衛兵組織がつくられ、批判大会が行われました。省長や市政府の官僚などが糾弾されました。天安門広場のことが忘れられず私はその年の11月再び北京へ行きました。それから恐れていた私の父母が批判対象になり、私は紅衛兵の腕章を外し家に立てこもっていました。

1968年、下放運動(国民を地方へ送り出す政策)が始まったとき、私は志願して下放しハルビンを離れました。下放先は、労働改造所(刑務所)が運営する農場で、冬は氷点下30度を超える酷寒の地で、肥料に使う凍った糞を道具で叩いて解す重労働を5年間耐えて働いてきました。

1972年の日中国交回復以後、日本の肉親捜しで帰国する母と共に神戸へ帰国しました。県の担当者から貿易会社を紹介され勤めながら大阪の日本語教室に通い、日本料理も習いました。その後、和歌山へ移り、和歌山市と中国山東省済南市との友好都市提携に際し市からの依頼で通訳を務めました。貿易会社には30年勤務し、退職後は神戸の大手介護関係の会社で働き今も勤めています。紅衛兵時代に行ったことは間違っていたと今になってわかりました、日本と中国が仲良くすることは私の願いです」と語りました。講演終了後、司会者から、河野さんの体験は「ハルビンの空」に詳しく書かれていますのでぜひご購読下さいとの紹介がありました。(写真は何れも8月30日に筆者撮影)

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