「地理史」「東夷伝」から読み解く倭人諸国の動向
「中国歴史講座」新シリーズが日中友好協会加古川支部主催で始まりました。第1回講座が2月27日午後、東播磨生活創造センターで開催され市民37人が参加しました。来村多加史阪南大学国際観光学部教授が「古代日本人の世界観―弥生人が見た中国」と題し講演しました。
来村教授は初めに「中国の海洋進出が世界的な問題となっているが、日本がこの問題にどう向き合い、どう対処してゆくのかを、深く慎重に考えないといけない。漢字を使う日本は、古来、中国文化の恩恵を受け、中国とは切っても切り離せない関係を続けてきました。日本人の中国観は時代ごとに様変わりしました。中国を大国と認めつつも、卑下してなるものかという負けん気があり、そのことは推古朝の外交にも伺えます。新シリーズでは、文献学と考古学の成果をもって各時代の日本人が抱いていた中国観を探ります」
弥生時代の中国と日本の年表を資料で示し、前漢時代の歴史を綴っている「漢書」―地理志、燕地の玄莬・楽浪郡を記した末尾に19文字の弥生社会の状況を伝える記載があり、その原文を読み解説しました。地理志は武帝期(弥生時代中期後半)の日本事情を伝えており、その頃、日本は100ヶ国余りに分かれ、それぞれが年ごと、季節ごとに貢物を持ってやってきたという。ただし、「朝貢」の語は使われていないことから彼の行く先は楽浪郡の群都であり、漢の都・長安までは及んでいなかったと思われます。
後漢書―東夷伝の日本に関する記載は「東夷列伝」の末尾に記載されているが、「三国志」と重複するいわゆる「魏志倭人伝」の部分です。魏志倭人伝は日本人だけの言葉で中国の学会で通用しない。また、三国志のごく一部であり独立した書ではない。日本に関する2008文字の記載があり、3段階に分かれていて、①帯方郡の使者が報告した倭の諸国の位置と戸数など②倭の風俗や物産に関する情報③卑弥呼即位の経緯、景初・正始年間における朝貢の記録などが記載されている。建武中元二年(紀元57年)倭奴国の使者は光武帝の最晩年に派遣され後漢の都である雒陽(河南省洛陽市)を訪れている。
来村教授は、当時の帯方郡(現北朝鮮)から末盧国(九州北部)までの海路図や潮流、対馬、壱岐に残る遺跡、古墳などを紹介し、遺跡から発掘された副葬品の銅鏡などを写真で紹介しました。
第2回講座は2021年7月31日(土)に開催予定、テーマは「卑弥呼が見た中国文化」