「廠窖大虐殺」事件から76年

太平洋戦争期最大の虐殺事件

日本軍の侵略、占領に抵抗する中国軍を殲滅

1943年5月、当時、中国を侵略していた支那派遣軍第11軍(司令官・横山勇中将)は、揚子江(現・長江)の輸送力強化とこの地一帯で動きを活発化する中国国民党野戦軍を撃滅することを目的に江北殲滅作戦に続き、江南殲滅作戦(4月下旬~6月初旬)を開始。

避難住民、敗残兵虐殺事件は第1期作戦中に起こった

湖南省北部の洞庭湖北西に位置し、三方を水に囲まれた廠窖(現・南県廠窖鎮)の方向に向け、日本軍は敗走する国民党軍を追跡し独立混声第17旅団、第3師団、戸田・小柴・針谷の3支隊が南県へ侵攻。避難民や敗残兵が集中する廠窖(東京の山手線内側より少し狭い面積)へ約3000名の日本兵が入り空・陸・湖、河川の三方から無差別攻撃、5月9日~11日の3日間で3万人余が犠牲に、その殆どが避難してきた民間人であったと報じられている。

廠窖は内陸の辺鄙でのどかな農村地帯

廠窖は当時、漢壽県に属し正式な地名ではなく地元住民が言い伝えてきた呼び名であった。湖沼、河川が多く住民の多くは、淡水魚漁や米、野菜、綿花栽培などの農魚業で生計を立てていた。廠窖は南京、重慶、上海などと違い辺鄙な農村で、外国の駐在機関や報道機関もなく、住民の目撃証言か被害者の身体に残る傷跡と記憶、地中に埋まった犠牲者の遺骨が事件を証明する手段となっている。軍事裁判への提訴を計画したが、その後の国共内戦、新中国建国に伴う国情の変化が続き、裏付け調査、資料収集、被害証言の聞き取りなど提訴に必要な資料作成が間に合わなかったと言われている。日本はじめ世界、中国国内でも事件については殆んど知られていなかった。(写真上は遺骨発掘作業、廠窖惨案紀念館所蔵、下は千人坑に立つ事件目撃者の全伯安さん。この地は当時池があった所で、下に遺骨が埋葬されている。)

事件から1か月後、長沙の新聞記者が現地取材し惨状を報道

残虐な虐殺事件を長沙の新聞記者が1か月後に現地取材し報道している。省都長沙の陣中日報・国民日報・力報・国民党政府中央社などの記者が事件の惨状を克明に報道している。1943年6月初旬に取材した陣中日報の袁琴心記者は6月6日付紙面に「河の両岸に焼け焦げた舟が、まるで干し魚のように並んでいて見るに忍びなかった。河の中の死体は、船が通れないほどだった。少し動くだけで、前後左右から死体が出てくる。腐乱したどろっとした肉は、舟の周りに貼りつく。埋められた死体は、数十人或いは百人余りが一つの穴に埋められ、それは至る所にあった。通りかかると臭気が漂い、骨が雨水に流され外に表れている。本当に悲惨だ」と報道している。(写真は、日本軍部隊の南県侵攻を伝える民国32年5月11日付の中央日報、廠窖惨案紀念館所蔵、民国32年は西暦1943年)

被害者・郭鹿萍さんは語る「心の痛みは表現できない」

1943年5月9日、村にやって来た日本兵に他の避難者とともに避難先で捕まり数珠つなぎにされ銃剣で腹など数か所を刺されて意識を失った地元住民の郭鹿萍さん(1925年生まれ)は、翌日の夕方意識が戻り、近くの畑まで這って身を隠し、そら豆の葉に溜まった水滴を舐めて2日間じっと耐え助けられたという。「当時は、河・池・家の周辺はどこも目の向く所は惨状ばかりで、70年以上経った今も目の前に浮かんで、心の痛みは表現できません」と語ります。当時の惨状は多くの目撃者、被害者が証言しています。廠窖事件から今年5月で76年が経ちました。侵略戦争の実態を知り、二度とこのような悲惨なことを起こさせないために今やるべきことは「戦争へとつながる道」を阻止することではないだろうか。(写真中央:銃剣で刺された傷跡を見せて証言する郭鹿萍さん。2014年12月19日、廠窖惨案紀念館にて筆者撮影)

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