12月13日、中国では「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館は、南京侵華日軍受害者援助協会に登録されている生存者は79人になったと発表。今年は南京大虐殺82周年、日本軍による大虐殺から生き残った人は80代、90代となっています。12月13日は6回目の「国家追悼日」です。
1937年12月12日夕方、日本軍が南京城の南側と東側の城壁と門を突破し城内に殺到すると、中国軍将兵と市民はパニックに陥った。膨大な数の退却兵・潰走兵と、軍隊と一緒に南京を脱出しょうとする避難民の大群が、北西部の挹江門から脱出、長江(揚子江)を渡って逃げようと埠頭のある下関へ殺到した。しかし、南京死守作戦を命令した唐生智南京防衛軍司令長官によって、長江を渡るための船舶はすべて撤収されていた。13日午前2時、3時頃には、城内の砲声や銃声も途絶え、中国軍の全ての抵抗は瓦解した。南京城は陥落したのです。(上図は、太線・上海から南京への侵攻図)
一方、日本に於いては、12月13日の昼には「南京陥落戦勝祝賀大会」が後楽園スタジアムで開催され、10万人が集まり君が代を大合唱。14日には、全国の小中学校も休校とし、政府・官庁・教育界の肝入りで全国で旗行列、提灯行列が繰り広げられた。陸軍中央の統制を無視して強行した南京攻略戦であったが、大元帥昭和天皇からじきじきに「首都南京を陥れたることは深く満足に思う」との「御言葉」が下される大軍功とされたのです。
日本軍が南京攻略戦と占領下の南京で行った南京大虐殺についてはすぐに世界に報道されて、国際的な非難を呼び起こしたが、日本においては、軍部と政府の厳しい報道統制によって、日本国民には知らされることはなかった。(日中友好協会編「日中友好ブックレット3~日本は中国でなにをしたか」より)
写真は「村瀬守保写真集一兵士が写した戦場の記録・私の従軍中国戦線」より(写真説明は村瀬氏)
写真上:日本軍の砲爆撃により突破口をあけられた南京中山門の城壁。
写真中:虐殺された後薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体、ほとんどが平服の民間人でした。
写真下:焼かれた死体を見る日本軍兵士。