神戸・関帝廟で犠牲者追悼「慰霊祭」開催の歴史
太平洋戦争末期、兵庫県内へ強制連行された中国人が、神戸港と相生の播磨造船所で、厳しい監視の下、重労働を強いられ神戸で17人、相生で28人が病気や栄養失調による衰弱などで亡くなっています。
当時の日中友好協会神戸支部が、「兵庫県殉難中国人・慰霊と殉難詳報」を作成しその実態を伝え残しています。詳報によれば、協会神戸支部と華僑団体が協力し、1954年1月から県内での強制労働の実態調査を始めています。神戸港では港湾荷役作業を請け負っていた関連企業、相生市では播磨造船所などから聞き取り調査。犠牲者の遺骨収集調査は、神戸港では病院、寺・教会、火葬場など関係先を調査したが遺骨の所在は見つからずとの記載があります。
相生市では、相生市役所、播磨造船所への調査で3人の遺骨が共同墓地に埋葬されていることが判明、協会役員・宝地院住職・神戸華僑聯誼会・中国帰国者代表が相生市と交渉し、埋葬されていた遺骨とその場の土を持ち帰り宝地院に安置し、1957年10月18日、神戸華僑聯誼会主催の法要供養が宝地院で行われました。翌19日には、県内30団体で構成された兵庫県殉難中国人慰霊実行委員会主催の慰霊祭が関帝廟で行われました。
阪神・淡路大震災で宝地院本堂が全壊し、再建の過程で慰霊祭で使われた「殉難中国烈士之霊位」と書かれた「位牌」が見つかり、1998年から協会兵庫県連合会主催の「強制連行・強制労働による中国人犠牲者を慰霊する集い」を開催し今年で26年目となります。9月3日(日)午後、猛暑の中、宝地院本堂で行った慰霊の集いは、協会役員、会員、協会外の市民など20人が参加しました。住職による読経と参加者の焼香で犠牲者を追悼しました。追悼行事の後、米国人カメラマンが1939年~40年に撮影した中国各地民衆の日常生活や日本軍侵攻に備える動き、1940年8月の日本軍による重慶無差別大爆撃を地上から撮影した極めて貴重なカラー動画を視聴し、感想などを出し合い懇談しました。