子供らの天真爛漫をこよなく愛した
良寛(1757~1831)は越後の名主の長男に生まれたが、家は弟に譲り、出家して良寛と称し、大愚と号した。国仙和尚に従って備中の玉島で十七年間修業したが、和尚の死後、越後に帰った。生家には戻らずあちこちの寺や草案を転々とした。四十七歳から十三年間、山中に隠遁している。五十九歳で村里に下り「霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつ今日も暮らしつ」などの歌で知られるように。村の子どもの相手をして暮らしたが、彼はその子どもらの天真爛漫をこよなく愛した。そして、その逆の「気取り」を極度に嫌った。好まぬもの三つ、詩人の詩、書家の書、料理人の料理という。
漢詩については、技巧の詩を批判した詩に「心中の物を写さざれば、多と雖も復た何をか為さん」といい、詩の形式である押韻や平仄などおかまいなしの破格ばかり作った。この詩も韻は踏んでいるが、平仄は無視した破格である。そして、「誰か我が詩を詩と謂う、我が詩は是れ詩に非ず、我が詩の詩に非ざるを知り、はじめて与(とも)に詩を言うべきのみ」とその主張を五言詩に作っている。
「下翠岑」 翠岑(すいしん)を下る 五言絶句 良寛
擔薪下翠岑 薪を担って翠岑を下る
翠岑路不平 翠岑路平かならず
時息長松下 時に息(いこ)う長松の下
靜聞春禽聲 静かに聞く春禽の声
薪を背負って、緑一色の小高い山を下りる
緑の山道は険しくて平らかではない
時に大きな松の根元で一息入れる
そこここから春の鳥の鳴き声が聞こえ心静かに耳を傾ける
(石川忠久編 漢詩鑑賞事典より)