第6回「中国残留日本人への理解を深める集い」

残留孤児の半生朗読と二世、三世が親たちの人生を語る

11月28日(土)午後、尼崎市内で第6回「中国残留日本人への理解を深める集い」が開催され約150人が参加しました。尼崎市が主催し、委託事業団体「コスモスの会」(宗景正代表)が企画・実行しました。初めに、稲村和美尼崎市長が開会あいさつし、朗読グループ「ま・どんな」のメンバー3人が、中国「残留孤児」宮島満子さん(84歳、尼崎市在住、長野県出身)が1938年、3歳の時、長野から一家11人で中国東北の東安省密山県へ開拓団として入植し、戦後40年も経ってから帰国した頃までの半生を証言を基に朗読しました。

ソ連が「満州」へ侵攻し、父親はソ連兵に連行されたまま戻らず、残された家族が開拓団からの指示で、ソ連機の銃撃の下、地獄の逃避行へ、その途中で兄弟は次々亡くなり、奉天まで来て、臨時の収容所となっている小学校で母親も飢えと寒さで衰弱し亡くなります。兄弟と3人が残され、このままでは死んでしまうと思った兄の説得で宮島さんは中国人家庭に預けられます。2度目の養父母に育てられ小学校へ入学、3年生の時、日本人ということでいじめられ、毎日衣服に唾をかけられたり、石を投げられ「小日本鬼子」(日本の鬼っ子)と罵られ学校へ行けなくなります。青年期には自殺も考えるが死にきれず辛い生活を送ってきました。宮島さんは、当時44歳の父親の消息について、ソ連へ連行されたあと強制労働させられる中で、赤痢のような病気にかかり、仕事が出来ない人や死んだ人と一緒にトラックに乗せられて山に放り出され、石油をかけられ生きたまま焼き殺されたことを知ったと証言しています。

日本へ一時帰国した際、生きて日本に帰っていた兄と再開を果たしますが、永住帰国したいと話すと兄は言葉もわからず、兄の家も人数が多く面倒が見れず、日本で仕事に就くのは難しい、習慣も違う日本で生活するのは無理だと言われ断念します。1980年代の後半、兵庫県への永住帰国がやっと叶い、兄の世話にもならずにすむと有馬温泉の旅館に住み込みで働き始めました。しかし、言葉が不十分なため、毎日「アホ、バカ、中国へ帰れ!」と怒鳴られながら辛抱してきた、と宮島さんの証言朗読は続きます。

集いは朗読の後、「国境に入植した開拓団について」コスモスの会代表の宗景正さんが写真や地図などを映しながら紹介しました。集いの第2部では「音楽のひととき」で、ピアニストの安達さおりさんがショパンの2曲とリストの1曲を演奏しました。その後、残留孤児2世と残留婦人3世が「親たちの人生を語る」と題し対談しました。聞き手のスタッフから、「親や祖母が残留孤児、残留婦人だと知った時どう思ったか」、「日本へ帰国してよかったこと、悪かったことは」などの問いに応える形で対談は進められました。その中で残留孤児2世の一人は、親たちは、中国で『日本鬼子』『日本へ帰れ』などといじめられ、日本へ帰国すれば『中国人は来るな』『中国へ帰れ』などと罵られ耐えがたい苦痛を味わっています、と声を詰まらせ涙声で訴えていました。

今回の集いを通じ感じたことは、この悲劇の大元には日本の中国への侵略戦争があり、中国の人々は、日本が中国を侵略したことにより何千万人もの中国人が被害を受け、命が奪われ、土地を奪い取られ、強制連行や強制労働により労働力を搾り取られ、動けなくなったら息があってもゴミのように捨てられた。また戦時、中国各地の鉱山では日本の大企業により膨大な量の地下鉱物資源が略奪され、抵抗すれば殺害された歴史をよく知っています。こうした加害について戦後の日本政府は公式に認めず、日本国民に知らせず、1990年代になり被害者やその家族が訴訟しても時効を盾に門前払い、謝罪も補償もしないという態度です。口先でいくら「日中友好、中国は日本にとって大切な隣国」などと言っても中国の人々には通用しないでしょう。今こそ日本の多くの人々が、「日本は中国でなにをしたか」の歴史を知る努力が必要ではないでしょうか、今後この様な悲劇が繰り返されることがないように。

会場ロビーでは宗景正さん撮影「ソ満国境に入植した開拓団」写真展も開催され多くの参加者が見入っていました。(U)

宮島満子さんの詳しい証言は2008年発行(高文研)の「私たち何じんですか?」に紹介されています。(樋口岳大・宗景正共著 1,700円)

中国残留日本人の歩んできた道

理解を深める集いで中国「残留孤児」の手記を朗読

2008年4月に発足し、同年10月に尼崎市の委託を受け、支援法に基づく支援事業として日本語教室を開設しているコスモスの会尼崎日本語教室(宗景正代表)は毎年1回「中国残留日本人への理解を深める集い」を開催しています。今年は、中国「残留日本人孤児」の手記朗読、2世・3世の対談、写真展「ソ満国境に入植した開拓団」を開催します。新型コロナウイルス感染症対策として、会場内の三密を避けるための座席配置で開催されます。また参加の際はマスク着用を呼びかけています。

日時:2020年11月28日(土)午後1時~4時30分

会場:尼崎市立中央北生涯学習プラザ1階大ホール

入場無料

・宮島満子さんの手記「朗読」~八人の家族を満州で失って~

 朗読グループ「ま・どんな」の皆さん

・音楽のひととき

・対談「親たちの人生を語る」2世、3世のみなさん

・写真展「ソ満国境に入植した開拓団」(撮影:宗景正)

 同会場1階ロビー 期間:11月25日(水)~28日(土)

 午前9時~午後9時、28日は午後5時まで

主催:尼崎市(委託事業団体:コスモスの会尼崎日本語教室)

後援:尼崎教育委員会

協賛:近畿中国帰国者支援・交流センター、大阪中国帰国者センター

お問合せ:コスモスの会 石打謹也(090-7489-7091)

HP:kosumosunokai.sakura.ne.jp/kosumosu.html

二度と戦争の惨禍を繰り返さないために!

新型コロナ危機を乗り越え、守ろう!平和憲法を

8月21日~23日、尼崎市立中央北生涯学習プラザで第25回「尼崎平和のための戦争展」が実行委員会(小迫勇委員長)主催、21団体の協賛・協力で開催され連日多くの市民が会場を訪れました。

展示会場には、憲法問題・侵略戦争の歴史年表・満州農業移民と中国残留日本人・国を相手に裁判を闘った中国残留孤児たち・戦時性暴力問題・尼崎の被災地図・沖縄戦パネル写真・原爆パネル写真・原発問題・集団的自衛権・地元9条の会の活動・平和へのメッセージ・DVDコーナーなどびっしりと資料、写真、戦時の現物などが展示され連日多くの参加者が見入っていました。

22日には、大ホールで映画「私たちが生まれた島」が3回上映され、23日には語り部コーナーで、尼崎市原爆被害者の会・仲村元一さんの「三線演奏・沖縄戦を語る」が開催されました。実行委員会では戦争体験者が年々少なくなっていく中で、二度と戦争の惨禍を繰り返さないために戦争展開催を今後も続けていきたいと語っていました。(写真は8月22日撮影)

第25回「尼崎平和のための戦争展」

新型コロナ危機を乗り越え、守ろう!平和憲法を

日程:2020年8月21日(金)~23日(日)

時間:9:00~18:00(最終日は16:00)

会場:尼崎市立中央北生涯学習プラザ

尼崎市東難波町2丁目14ー1 ☎06-6482-1750

●展示その他(1F 学習室A~C)

パネル「原爆と人間」、沖縄問題、各9条の会の活動、尼崎の戦災図、原発問題、戦争に突き進んだ歴史年表、憲法問題、自衛隊問題、残留孤児問題など

子ども向け平和紙芝居ー21日のみ(2F学習室②)

展示会場は入場無料

※マスク着用をお願いします。入場制限をさせて頂くこともあります。

●映画上映(1F大ホール)22日(土)3回上映

映画「私たちが生まれた島」都島伸也監督作品  141分

上映時間:①10:00②14:00③18:00

上映協力金:一般1000円 中高生500円

※マスク着用をお願いします。

●語り部コーナー(3F音楽室)

23日(日)14:00~15:30

仲村元一さん「三線演奏・沖縄戦を語る」

尼崎市原爆被害者の会

主催:尼崎平和のための戦争展実行委員会

後援:尼崎市、尼崎市教育委員会

連絡先:尼崎市西長洲町2-34-1 尼崎教育会館内

電話:06-6481-1133 携帯:090-4902-8398(松岡)

コスモスの会「尼崎日本語教室」が新年交流会

中国帰国者がダンスや太極扇、コマ回しなどを披露

中国帰国者を対象に尼崎市内で日本語教室を開き支援を続けるコスモスの会(宗景正代表)は1月18日(土)尼崎市立中央北学習プラザ大ホールで「2020年新年交流会」を開き、中国帰国者やその家族、支援団体などから約150人が参加しました。

まず、宗景正代表が、日本語教室開設以来の活動の歴史を紹介し今後一層の協力や激励をお願いしますと開会あいさつ、来賓として最初に、日中友好協会兵庫県連合会の上田雅美事務局長は、今年70周年を迎えた協会は創立間もない1953年から日本赤十字社や平和連絡会と共に5年間にわたり大陸に残された日本人の引き揚げ事業に取り組んだ歴史を語り、今も帰国者支援は協会の大切な活動の一つです、とあいさつしました。続いて尼崎市南部保険福祉センター所長、伊丹中国帰国者を支援し交流する市民の会代表・尼崎市内で新たに設立された多文化共生デイサービス「三和之家」代表(残留孤児二世)・近畿中国帰国者支援交流センター代表・八尾中国帰国者支援交流会会長などからあいさつがありました。

乾杯のあと、朝早くから支援者や帰国者が用意した餃子や料理を食べながら歓談しました。舞台では伊丹・宝塚日本語教室の「中華ダンス」、大阪中国帰国者の会の「広場ダンス」、神戸帰国者三世仲間による「チャイナドレショー」、楽しい健康の会メンバーによる「広場ダンスや歌」が次々と披露されその都度会場から大きな拍手、歓声が上がりました。個人演技では踊りや京劇を歌う、中国のコマ回しなども披露され、最後に会場の参加者が一体となり「故郷」などを合唱し、ヤンガー(秧歌)踊りが舞台や客席を一周しながら交流会の最後を盛り上げました。

恒例のコスモスの会「新年交流会」

餃子、料理を作り、食べて歌って踊ってワイワイ交流!

尼崎市の委託事業で中国帰国者向け日本語教室を開催しているコスモスの会は2020年「新年交流会」を開催します。

日時:2020年1月18日(土)12:30~4:00

会場:尼崎市立生涯学習プラザ1F 大ホール

参加費:コスモスの会会員500円 一般の方1200円

参加には申込みが必要です。(氏名・所属・連絡先)

問合わせ:コスモスの会 ☎080-8318-0858(田村)

証言「中国残留孤児となった弟よ!」

尼崎市で「中国残留日本人への理解を深める集い」開く

尼崎市の委託事業で毎週1回中国帰国者向けに「日本語教室」を開き、帰国者支援活動に取り組む尼崎コスモスの会(宗景正代表)は11月30日午後、尼崎市立中央北生涯学習プラザ大ホールで「第5回中国残留日本人への理解を深める集い」を開催、中国帰国者やその家族、支援者、一般市民など約200人が参加しました。(写真:「開拓団の歴史について」語る宗景正氏)

集いは最初に、宗景正代表(写真家)が「満蒙開拓団の歴史について」と題し、開拓団の歴史、年表、入植地の地図、写真をを映像で紹介し話しました。同氏が撮影した「昇平開拓団(大阪)の入植地(黒龍江省)を訪ねて」の写真展が大ホール前ロビーで27日から開催され多くの市民が参観しました。昇平開拓団は1943年の入植当時963人の団員でしたが敗戦時までに399人が亡くなっています。(写真:ロビーで開催された写真展に見入る集い参加者)

小学5年生の時、両親、姉弟7人で昇平開拓団に加わり渡「満」した田中義祐さん(1932年生まれ、87歳)が舞台に上がり、質問に応える形で入植当時の体験や思い出を証言しました。「入植から間もなく大工をしていた父親が亡くなり、母親が共同の農作業に加わり働いていました。1945年8月避難命令が出て鉄道駅のある安達へ向かって降り続く雨でぬかるんだ悪路を着の身着のままの状態で逃げ、流行っていた伝染病で沢山の人が亡くなりました。難を逃れ、私たち家族は知人の馬小屋で暮らしました。12月に哈爾濱の花園小学校に収容され、姉と外出から戻ると2人の弟たちがいなくなっていました。先を案じた母親が中国人に預けたのだった。母親はそれからしばらくして亡くなりました」

田中さんは1946年9月、開拓団の人々と共に葫蘆島から米軍の輸送船で博多へ引き揚げてきたが、弟たちの消息は不明。日中国交正常化から数年後、帰国する残留婦人が残留孤児となった弟の修さんの消息を国や大阪府に知らせてくれたことで弟の一人・修さんの所在が判明、1979年10月に一時帰国します。血液鑑定で肉親と判明し兄の田中さんは日本への永住を強くすすめ実現しました。残留孤児となったもう一人の弟は亡くなっていたそうです。義祐さんの弟・修さんは集い会場に出席し紹介されました。田中義祐さんは辛く悲しい自身の体験を集いに参加した大勢の人たちの前で証言を終え会場から励ましの大きな拍手を受けていました。最後に映画「ソ満国境15歳の夏」が上映されました。(写真:体験を証言する田中義祐さん・舞台上・中央の人、集会は数社のマスコミが取材し、動画はYouTubeでも紹介されています)

「中国問題講演会」は会場満席

中国はどこに向かう?日本はどう向き合うか

11月24日、尼崎市で開催した中国問題講演会は、「習近平政権が目指す『中国の夢』―中国社会の過去・現在・未来」と題し山本恒人大阪経済大学名誉教授が講演しました。会場には次々と参加者が来場し満席の熱気に包まれ中国問題への関心の高さが表れていました。

山本教授の講演は、1820年に世界のGDPの32・9%を占めていた中国(清国)は、アヘン戦争の敗北により欧米列強国や日本軍国主義の侵略により半殖民地化となり「東亜病夫」「睡獅」などと呼ばれ屈辱感、絶望感を味わうことになる。中華人民共和国成立直後の1950年にはGDPは4.6%にまで落ち込んでいます。

1987年2月の「中国的歴史教育青年」で鄧小平は、「中国がアヘン戦争によって半殖民地半封建社会に貶められ、中国人は世界から“東亜病夫”と呼ばれるようになった。以来、一世紀近く、孫中山はじめ我国の識者たちは皆中国の出路を探し求めてきたのである」と述べています。

山本教授は、その後の中国の経済発展の足取りと今後の「『中国製造2025』―三段階発展戦略(習近平)」について具体例を示しながら解説する中で、中国はモノづくり大国ではあるが「強国」とは言えないと語りました。米中貿易摩擦問題でのトランプ政権の狙いは「中国の先進国化」潰しで、アメリカの時代の終焉を告げる思想でありその標的は「中国製造2025」にあると強調します。

世界が注目する「香港問題」にも触れ、山本教授は自身の考えを次のように述べています。「逃亡犯条例改定案」は「一国両制」すなわち香港には高度な自治を認め、それを法制化した「香港基本法」があり、それに抵触するものです。50年の期限の中間で両制の「一制」化に踏み出したことによって、中国は信用失墜の過程にあると言わなければなりません。香港市民・学生の「共同五大要求」は広範な支持を受けている。香港行政当局が「逃亡犯条例改定案」を正式撤回したのは正しいとはいえ、「両制」を堅持させる役割を担わなければなりません。「五大要求」への対応の弱さが市民・学生を失望させ運動の過激化の要因となっているのです。

学生・市民は「五大要求」の貫徹で結束し、あくまで非暴力・平和的行動・対話という運動の原点に回帰しなければなりません。警察暴力には暴力をという風潮の拡大・それによる市民生活の障害は広範な市民の支持を失いかねず、さまざまな徴発勢力による運動の妨害・破壊行為を招いています。さらには、それを引き金とする香港駐屯人民解放軍の全面出動にすら至りかねない緊迫した局面を迎えています。

香港高等法院は、行政当局がデモ隊の覆面を禁止する「覆面禁止規則」を布告した措置を「香港基本法」違反とする理性ある判断を示し、警察もその適用を即刻停止しました(11月17日)。「香港行政当局」は警察による実弾発砲拡大を規制し、秩序ある治安行動を指示し、間違っても「香港基本法」に基づく人民解放軍出動を要請するようなことがあってはなりません。

中国は社会主義なのか?についても参加者に問いかけながら語ります。若い時に学んだ社会主義とは、「生産手段の社会化」「労働に対する搾取をなくし、労働に応じた配分」などなど・・これまでは経済的な理解が重点だったが現在は人権・自由・民主主義が重視されるようになっている。自ら称し、他からも「社会主義」と言われてきた中国、どうなっている、どこへ行く・・。社会主義でないとは、資本主義ということか?「社会主義市場経済」の「市場経済」と資本主義は同じ?ちがう?もし資本主義なら指導者中国共産党は資本主義政党なのか?あの「独裁体制」はそれこそ社会主義じゃないの?貧しかった途上国中国は先進国になれるのか?豊かさの追及はいいことじゃないの?国民の財布が一杯になればどちらでもいいんじゃないの?最大の資本主義アメリカと衝突しているのは資本主義中国?

「中国の夢」は、近現代史から見て、21世紀の現時点から見ても、私たちも十分に理解することができるものです。しかし、その「中国の夢」の実現は、アメリカから見れば世界「覇権の交代」を意味しており、それがアメリカ特にトランプ政権にとって許せないのです。でも「中国の夢の実現」はどこから見ても避けがたいようです。

一方、「中国はアメリカとともにアジアの軍拡を主導しているとみられている。中国の経済発展と豊かさへの前進は称賛に値するが、平和・軍縮・自由と民主主義の旗手たり得ていない」。これは今まで中国に対する楽観主義を特徴としてきた井手啓二先生の言葉です。それでは「中国の夢」の実現が、アメリカのような「世界覇権」の確保ではなく、「平和・反核・軍縮・環境保全・自由と民主主義の旗手」「世界運命共同体」のリーダーとなるような道はあるのでしょうか?

作られた「中国脅威論」を一掃する。日本に「戦争の道」を歩ませないために、私たち自身が最大限の努力を惜しみなく行うことです。「憲法九条」を守りぬくことです。「日中不再戦」を国民世論とし、それを達成すれば、中国軍拡の道は大幅に縮小に向かうでしょう。

日本の現状からみても、日中関係は経済界や日中友好を願う民間の交流が主導権を持つべきでしょう。両国の国民がそれぞれの国の歩みに主体的に責任をもってこそ、両国関係は改善に向かうのです。

戦前の侵略・戦争による中国・韓国・アジアへの加害の歴史認識を今一度明確にし、日中韓関係の正常化と三国国民の融和こそ東アジア・世界の平和と安定の要であり、日本の使命だということを確認いたしましょう。(2019年11月24日、尼崎市での講演要旨)

心に響いた中国残留邦人の言葉

「理解を深める集い」尼崎で200人、神戸で300人超

中国残留邦人への理解を深める集いが県内2ヵ所で開催されました。10月20日に尼崎市で開催された集いでは約200人の市民が参加、「残留孤児」1世、2世、支援者が参加したシンポジウムや特別記念講演でジャーナリストの大谷昭宏氏が「みんなの命輝くために」と題し講演しました。

11月18日には神戸市で開催、300人を超す市民が参加しました。先ず、日本民謡藤本流の皆さんによるミニコンサートがあり、続いて大橋晴美さん母子が中国の生まれ故郷を訪ね、戦争と友好を見つめる旅を記録した信越放送テレビ局制作のドキュメンタリー映画「遼太郎のひまわり~日中友好の明日へ」を鑑賞。最後に帰国者2世の大橋晴美さんが「中国帰国者2世の思い」と題し講演しました。「戦争がなければ私は生まれてこなかった命、存在そのものへの不条理、その苦悩は今も消えない。戦争の歴史ゆえに中国では非難を受け、日本では偏見の中で生きてきた」と自身の半生を語りました。大橋さんの言葉に参加者は心打たれ聞き入っていました。(写真上は尼崎市の集い、左はジャーナリストの大谷昭宏氏。写真下、神戸市の集いで演奏する民謡藤本流の皆さん)