北魏が刻んだ壮大な祈り ― 雲崗石窟の迫力
中国では長く儒教が中心でしたが、西暦1世紀ごろ、インドから仏教が伝来しました。 漢の時代を経て五胡十六国の混乱期に入り、北魏では一時「廃仏」が行われます。 しかし文成帝が仏教を復興し、僧・曇曜に命じて460年、ついに雲崗石窟(うんがんせっくつ)の開削が始まりました。
■ 大同の郊外、武周山の岸壁に刻まれた巨大石窟
雲崗石窟は山西省の最北、大同市の西15kmほどの武周山に位置します。 北魏の都・平城(現在の大同)に近く、公共バスで行ける場所ですが、 周囲にはほとんど何もなく、静かな荒野の中に突然“巨大な仏の世界”が現れる―― そんな印象が残っています。
バス停「雲崗石窟」で降りて歩き始めると、 遠くに大きな石仏が見えてきます。 これが最初に削り出された曇曜の五窟。 北魏の初代・道武帝から文成帝までの五人の皇帝になぞらえて造られたものです。
正面にそびえるのは第20窟の露天大仏。 雲崗石窟の象徴ともいえる存在です。 もともとは窟内にありましたが、10世紀頃に崩落し、 現在のように“空の下に露わになった大仏”となりました。
■ 西域文化の息づかい ― くっきりした目鼻立ち
雲崗の仏像は、目鼻立ちがくっきりしているのが特徴です。 西域や北方民族の文化の影響が色濃く、 ガンダーラ美術やグプタ朝の様式が感じられます。
粗い砂岩質の岸壁を削り出して造られた巨大仏。 460年から60年以上、途切れることなく彫り続けられたといいます。 しかも失敗なく、均整の取れた美しい姿を保っている―― その事実を前にすると、 「これは本当に人間の手によるものなのか」と思わず息をのみました。
奈良の大仏と同じほどの大きさですが、 鋳造ではなく“岩を削って造る”という技法は、 想像を絶する労力と技術が必要です。 ただただ圧倒されるばかりでした。
現在、53の石窟が現存し、約5万体の仏像が残っています。 雲崗石窟は、中国四大石窟のひとつとして世界的にも知られています。
■ 雲崗期から龍門期へ
北魏は孝文帝の時代(494年)、都を平城から洛陽へ遷都しました。 それにより、460年から続いた雲崗での仏教彫刻――雲崗期は終わりに近づき、 新たに洛陽での仏教彫刻、すなわち龍門期が始まります。
次回は、その龍門石窟の旅へと続きます。 どうぞお楽しみに。

最近、 あるネットユーザーが
旅客列車の“行李車(荷物車)”を表す記号なんです。



前回の終わりに触れたことわざ、 「五岳から帰れば山を見ず、〇〇から帰れば岳を見ず」。 この“〇〇”に入るのが、今回ご紹介する黄山(こうざん)です。
黄山には69の峰があり、そのうち16の峰が特に素晴らしいとガイドブックに紹介されていました。 山中で1泊する予定だったので、 「2日間で16峰すべて制覇しよう」と意気込んで出発しました。
翌朝は暗いうちに出発し、 日の出が最も美しいと言われる光明峰へ向かいました。
黄山には三主峰と呼ばれる 蓮花峰・光明峰・天都峰があります。
今回ご紹介するのは、山東省の省都・済南の南にそびえる泰山(たいざん)です。 中国の道教における五つの霊山「五岳」のひとつで、東岳泰山として古来より「天下第一山」と称えられてきました。標高は1532m。 中華文明の五千年の歴史を象徴する山であり、秦の始皇帝から清朝に至るまで、13代の皇帝が国家の繁栄を祈る儀式「封禅」を行った場所としても知られています。
登山口は麓の町・泰安。 ここから山頂までは、なんと約7000段の石段が続きます。
最初の目標は中天門。 出発して1時間ほどで到着し、ここでようやく中間点近く。 遠くには、次の目標である南天門が小さく見えています。
山頂手前には、泰山を象徴する有名な石刻 「五岳独尊」があります。 ここは絶好の撮影スポットですが、 訪れたのが国慶節の大型連休だったため、 あたりは「人人人」という状態。 誰も写り込まない写真を撮るのは、さすがに不可能でした。
中国にはこんなことわざがあります。
中国・四川省のジャイアントパンダ国立公園で、山中を歩く“白いパンダ”の最新映像が公開されました(新華ネット・5月26日付)。 白いパンダが初めて確認されたのは2019年。四川の自然保護区管理局が、保護区内で撮影した1枚の写真を公表し、大きな話題となりました。今回公開された映像は、その個体が成長した現在の姿を捉えたものです。
あまり知られていませんが、中国・陝西省の「秦嶺四宝科学公園」には“茶色いパンダ”がいます。名前は「七仔(チーザイ)」。2009年に秦嶺山脈で発見・保護された個体です。
両者は1万年以上前に分岐し、その後は地理的に隔てられたまま交流・交配がないとされています。生息数は四川亜種が全体の約3分の2を占め、圧倒的に多い状況です。
広東省広州市から西へ約80km。 ガイドブック『地球の歩き方・広州編』に「小桂林」と紹介されていた肇慶市に、ふと思い立って出かけることにしました。
肇慶に着くとまず帰りのバスの切符を確保し、売店で地図を購入。 すぐ近くに「七星岩」の門があり、そこが“小桂林”と呼ばれる景勝地でした。
のか」と胸が高鳴りました。
今回は「初めての旅」ゆえにハプニング続きで、 景勝地の紹介は少し控えめになりました。
昨晩、CCTV4の国際ニュースを視聴していたところ、番組の中でごく短い時間ではありましたが、日本の小泉防衛大臣と米国のヘグセス国防長官が言葉を交わしている映像が映りました。 その後すぐに画面はトマホーク巡航ミサイルの映像に切り替わり、会談の様子は一瞬で終わってしまいましたが、話の大まかな流れはつかめたように思います。
1974年3月。 西安市臨潼区・西楊村の荒れ地で井戸を掘っていた村人、楊志発(ヤン・ジーファ)さんが、偶然陶製の人形のような破片を掘り当てました。
役場から連絡を受けたのが、考古学者の袁仲一(エン・チョンイー)先生でした。 陶片が「人形の頭部や体の一部」であること、そして始皇帝陵の近くで見つかったことから、 「これは始皇帝陵の副葬品ではないか」 と直感し、本格的な発掘に踏み切ります。
しかし、発掘の事実は中国政府により厳重に秘匿され、写真撮影も固く禁じられていました。 そんな中、世界で初めて兵馬俑の姿を写真で紹介したのが、アメリカの女性ジャーナリスト オードリ・トッピングさんです。
こうして兵馬俑は破壊を免れ、世界の宝として日の目を見ることになりました。 その陰には、


2月27日の早朝、標高3260メートルに位置する青海湖駅は気温マイナス9度。刺すような寒風が、がらんとしたホームを容赦なく吹き抜けていた。
夜明け前、51歳の駅値班員・趙磊(ジャオ・レイ)はすでに一日の仕事を始めている。コンピューター画面に向かい、構内の線路使用状況や刻々と変わる信号を注視しながら、通過列車の運転士とリアルタイムで連絡を取り合う。
「普段は調度員が遠隔で駅を管理しますが、工事や“天窓”と呼ばれる保守作業の際には、駅での手動管理に切り替わり、値班員が列車運行の組織、設備監視、各部署との調整をすべて担当します」と趙磊は説明する。
駅は町から遠く離れているため、休勤日は上下それぞれ1日1本だけの通勤列車に乗るしかない。2本の列車が青海湖駅に停車する間隔は50分。この50分が、2人が顔を合わせられる最も長い時間だ。
行車室の窓辺には数鉢の観葉植物が置かれ、外の枯れた景色と対照的な緑を添えている。「普段はあまりに静かなので、植物を育てていると気持ちが和むんです」と趙磊は笑う。