水色が生まれる場所 ― 黄龍の彩池と石灰棚
前回ご紹介した九塞溝のすぐ隣、 といっても山ひとつ隔てて何十キロも離れていますが、 四川省北部にはもう一つの絶景、黄龍(ホアンロン)があります。
黄龍は「四絶」と呼ばれる 彩池・雪山・渓谷・森林 この四つの景観が組み合わさった、世界でも稀な自然保護区です。
標高3100mの迎賓彩池から、3600mの五彩池まで木製の遊歩道が続き、 九塞溝より標高が高いため、私は酸素ボンベを片手に歩きました。
■ 山を昇る“黄色い龍”の正体
黄龍という名は、 黄色がかった乳白色の石灰華が山肌を覆い、 まるで山を昇っていく黄金の龍のように見えることから付けられたといいます。
ここは、石灰分を含んだ湧水が 気の遠くなるような年月をかけて自然に作り上げた石灰棚。 その棚田のような段々に、 彩池(さいち)と呼ばれる湖沼がどこまでもどこまでも続いています。
その数、なんと3400の湖沼。 人が何年もかけて切り拓く棚田も素晴らしいですが、 自然がつくり上げたこの景観は、 「自然の力はどれほど大きいのか」と思い知らされる場所でした。
■ “水色”という色を初めて理解した
私は文学の才能はありませんが、 黄龍を歩きながら「水色とは何か」を考えさせられました。
棚田のすぐ近くで真上から見ると、水は透明。 しかし、少し離れて棚田全体を眺めると、 水面がまるでクレヨンや色鉛筆の“水色”そのものに見えるのです。
「水色という色は、ここから生まれたのではないか」 そんな仕様もないことを思ってしまうほど、 本当に美しい光景でした。
■ 九塞溝よりも心に残った景勝地
九塞溝は中国旅行の中でもトップクラスの人気を誇り、 確かに素晴らしい景勝地です。
しかし私見では、 黄龍はそれ以上に心を揺さぶられる景勝地だと思います。
日本からの観光ツアーでは九塞溝が必ず計画されていますが、 ぜひその際は黄龍にも立ち寄ってほしいです。 一味違う感動が、きっと待っています。

毎年、終戦の日にあわせて開かれてきた「平和のつどい」。 今年も兵庫区・妙法華院の本堂で、静かに、そして温かく開催されます。
「共産党員号」機関車は、中国鉄路沈陽局集団有限公司・沈陽機務段に所属し、牽引機は「和諧D3D1921」型。 2016年7月1日に正式に「共産党員号」と命名され、今年でちょうど10周年を迎えました。
「共産党員号」には10名の運転士が所属しており、全員が共産党員。 1本の列車には2名が乗務し、走行中は交代しながら運転します。
編成は硬臥(ハード寝台)13両、軟臥(ソフト寝台)3両、高級軟臥1両の計17両。 機関車の特別な意味合いから、停車駅のホームでは記念撮影をする旅客の姿も多く見られます。
赤い車体は星の光を映し、 「共産党員号」は今日も前へ進み続けます。 使命を胸に、力強く駆け抜け、 新たな旅路でその栄光をさらに刻んでいくのです。
今回は、中国内陸部・四川省の北端に位置する九塞溝(きゅうさいこう/ジウジャイゴウ)です。 省都・成都から飛行機なら1時間足らず、現在では高鉄(新幹線)で約2時間と、アクセスは非常に便利になりました。
九塞溝には数多くの名勝がありますが、その代表格が五花海です。
九塞溝の最奥、海抜3100mに位置する五彩池は、 まさに九塞溝の象徴ともいえる場所です。
入り口から歩いていくと、連なる湖沼の間に盆景灘瀑布が現れます。 海抜2000m付近なので、夏でも涼しい風が心地よく感じられました。
夏の訪れとともに、兵庫県内の各地域で恒例の「戦争展」が開催されます。 戦争の記憶を語り継ぎ、平和の尊さを次の世代へ手渡すために続けられてきた取り組みで、今年も多くの市民団体が力を合わせて準備を進めています。
ところが、2020年の全国人民代表大会で「国家通用語文」普及政策が決議され、これに基づき教育内容が大きく変更されました。 同年9月の新学期から、小中学校の「語文(国語)」「政治(道徳)」「歴史」は漢語の教科書を使用し、授業も漢語で行うことが決定。つまり、1年生から漢語による授業が始まることになったのです。
今回のテーマは、近代中国を語るうえで欠かせない 毛沢東と蒋介石。 二人の歩んだ道は、中国の近代史そのものと言っても過言ではありません。
私が龍門石窟を訪れたのは、五一(メーデー)の休暇。 当時(2008年)はまだ旅行アプリなど使っておらず、 ガイドブックを見てホテルに電話し、中国語で予約していました。
龍門石窟は北魏の龍門期(494〜520)に始まり、 その後、隋・唐の時代まで掘り続けられ、 実に400年以上にわたって造営が続いた巨大な石窟群です。
この時の衝撃は、今でも忘れられません。
歴史上は雲崗石窟の後に龍門石窟が造られましたが、 私はその順序も知らず、 しかも龍門が“初めて訪れた石窟”でした。
中国では長く儒教が中心でしたが、西暦1世紀ごろ、インドから仏教が伝来しました。 漢の時代を経て五胡十六国の混乱期に入り、北魏では一時「廃仏」が行われます。 しかし文成帝が仏教を復興し、僧・曇曜に命じて460年、ついに雲崗石窟(うんがんせっくつ)の開削が始まりました。
バス停「雲崗石窟」で降りて歩き始めると、 遠くに大きな石仏が見えてきます。 これが最初に削り出された曇曜の五窟。 北魏の初代・道武帝から文成帝までの五人の皇帝になぞらえて造られたものです。
粗い砂岩質の岸壁を削り出して造られた巨大仏。 460年から60年以上、途切れることなく彫り続けられたといいます。 しかも失敗なく、均整の取れた美しい姿を保っている―― その事実を前にすると、 「これは本当に人間の手によるものなのか」と思わず息をのみました。
北魏は孝文帝の時代(494年)、都を平城から洛陽へ遷都しました。 それにより、460年から続いた雲崗での仏教彫刻――雲崗期は終わりに近づき、 新たに洛陽での仏教彫刻、すなわち龍門期が始まります。