高松塚壁画発見50周年―来村多加史教授が記念講演

高松塚壁画の源流が唐王朝にあると思わせるもの

7月30日(土)午後、日中友好協会加古川支部は、高松塚壁画発見50周年を記念し講演会を開催しました。講演会では来村多加史阪南大学国際観光学部教授が「画家が伝えた中国の最先端文化」と題し約2時間講演しました。その一端を紹介します。

唐墓、章懐太子墓・懿徳(イトク)太子墓・永泰公主墓の3墓の墓室壁画は一流の画家により描かれた名作となっている。700年前後に築造されたものと推測される高松塚古墳の壁画は、3墓の壁画と時期をほぼ一にするものであるだけに、それらが比較検討されるのは当然のことであろう。高松塚壁画の画家が黄文連本実であるならば、彼が渡航して唐朝の絵画を学んだ時期は、3墓が営まれた時期よりも半世紀前である。比較するならば、その時期かそれ以前の唐墓壁画を引き合いに出すべきであろう。高松塚壁画の構図や運筆には、唐士(もろこし)においても一流と認められる技量が感じられる。よって、最先端の文化を担う画家たちの作品を見なければならない。

東アジアの墓室壁画概説

1、中国 およそ西周時代から墓室壁画の発想が現れるが、発見例は限られている本格的に発展するのは前漢時代になってからのことである。主題は、神々の世界を天井に表現し、魂の「昇天」を願うものであったが、後漢時代になると、壁面に現実世界の絵画が描かれ、被葬者が生前に送った生活を再現して見せるようになる。南北朝時代に西安や洛陽などの黄土地帯に深い土洞墓が掘削されるようになると、墓室には侍従や侍女に囲まれた屋内での生活風景が描かれ、墓道には、威儀を正して外出する儀仗出行の場面が描かれるようになった。

2、朝鮮半島 主に高句麗の壁画が残されている。高句麗は五胡十六国時代から強大化し、拠点を遼東から朝鮮半島の北部へと移していった。後期の都である平壤は、かつて漢民族の支配地であっただけに、漢民族の文化がよく残り、壁画の方面でも大きく影響を受けた。また南北朝時代には南朝との交流もあって、その影響を受けている。早くから受容した仏教的な色彩も強い。

3、日本 古墳時代後期から九州を中心に装飾古墳が築かれたが、抽象的なデザインが多く、具象的なものも原始絵画の域を出るものではなかった。飛鳥時代になって、中国との直接的な交流が始まるなか、遣唐使に同行して留学した僧侶や学生が唐文化をもたらした。キトラ・高松塚古墳の壁画もその交流史の中で語るべきでである。

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