内モンゴルで進む漢語教育強化とモンゴル族の現実

中国には日本と同じく各地に方言があります。しかし、その違いは日本の東北弁と関西弁の差どころではなく、文法・語彙・発音が大きく異なり、ほとんど“別の国のことば”と言ってよいほどの隔たりがある場合もあります。 このままでは地域間の意思疎通が難しいため、北京語を基礎とした標準語「漢語普通話」が整備され、全国で普及が進められてきました。大学入試や授業、全国から人が集まる職場では普通話が使われるのが一般的です。

■ 内モンゴルの従来の教育制度

少数民族地域では、つい最近まで小学校低学年の授業はその民族の言語で行われていました。 内蒙古自治区では長年、モンゴル語を基盤に中国語も学ぶ「双語教育」が採用されてきました。

  • 小学校1・2年生:モンゴル語の標準語で授業

  • 3年生以降:漢語(普通話)による授業

ところが、2020年の全国人民代表大会で「国家通用語文」普及政策が決議され、これに基づき教育内容が大きく変更されました。 同年9月の新学期から、小中学校の「語文(国語)」「政治(道徳)」「歴史」は漢語の教科書を使用し、授業も漢語で行うことが決定。つまり、1年生から漢語による授業が始まることになったのです。

■ 住民の反発とメディア報道

この変更に対し、内モンゴルでは「民族のことばと文化が失われる」として保護者らが抗議デモや授業ボイコットを行いました。 日本のマスメディアもすぐに反応し、

  • 「モンゴル語教育廃止」

  • 「抗議行動が拡大」

  • 「中国政府の狙いは民族抹殺」

といった刺激的な見出しが並びました。

■ なぜ漢語教育が急がれるのか

中国は56民族が暮らす多民族国家であり、使用される言語も多様です。 国内の意思疎通を円滑にし、経済活動の効率化、教育水準の向上、情報化社会への適応、さらにデジタル化・AI化に伴う情報標準化を進めるため、統一言語の普及は国家的課題となっています。 こうした背景が、政府が漢語教育を強化する理由と言えるでしょう。

■ 内モンゴル自治区による住民調査

住民の反対行動を受け、内モンゴル自治区人民委員会は「住民が漢語教育強化をどう考えているか」を把握するため、自治区地方言文字研究応用センターに委託し、 「内モンゴル辺境地区言語態度および言語能力検査」 という大規模アンケートを実施。2024年に結果が公開されました。

調査対象は都市部ではなく、問題の焦点となっている辺境の20の“旗”と“市”。回答者は2,520人で、そのうちモンゴル族は2,186人。 普通話が「よくできる」と答えた人は 8.4%、モンゴル語標準語が「よくできる」は 25.6%。 多くの人が標準語ではなく、地域のモンゴル語方言を日常語としている実態が浮かび上がりました。

■ 92.6%が「国家共用語は必要」と回答

注目すべきは、「国家通用語は有用と思うか」という質問への回答です。 92.6%が「非常に有用」と答えたのです。

京都大学・慶應義塾大学名誉教授で日中友好協会副理事長の大西広先生は、ウェブメディア「中国学ドットコム」に掲載した評論 《内モンゴル辺境地区における日常語と漢語化への反応》 の中で、この結果を取り上げ、

「漢語教育が必要という点では、内モンゴルの蒙古族の中でほぼ合意ができている」

と指摘しています。

つまり、モンゴル族の多くは、 学歴社会と厳しい就職競争を生き抜くためには高度な普通話能力が不可欠である という現実を理解しているのです。

■ 不満を抱く層と「ことばへの愛着」

大西先生はさらに、政府の言語政策に不満を強く持つ傾向があるのは、

  • 男性

  • モンゴル族

  • 年長世代

  • 高学歴者

  • メディア関係者

であると分析しています。

また、モンゴル族も漢族も日常ではそれぞれの方言を使い、それに強い愛着を持っています。 その愛着が、標準語である「普通話」への距離感となり、特にモンゴル族ではその傾向がより強いと指摘されています。

中国近代史学習会にご参加ください

日中友好協会兵庫県連では、毎月「中国近代史学習会」を開いています。 中国近代史の流れをゆっくりたどりながら、激動の時代を生きた人々の姿を学ぶ、落ち着いた雰囲気の勉強会です。

しかし、最近は参加者が少なく、6月20日の回は残念ながら参加者がお一人で流会となりました。 せっかく準備を重ねている内容ですので、できれば多くの方と一緒に学び、語り合いたいと願っています。

歴史に詳しくない方でも大歓迎です。 「少し興味がある」「昔の中国を知ってみたい」――そんな気持ちだけで十分です。 どうぞ気軽にお越しください。

📘 7月の学習テーマ

今回のテーマは、近代中国を語るうえで欠かせない 毛沢東と蒋介石。 二人の歩んだ道は、中国の近代史そのものと言っても過言ではありません。

そして今回の講師・前田清県連会長は、若い頃に中国を訪れ、毛沢東本人と実際に会った経験を持つ数少ない日本人の一人です。 歴史書では得られない「その場の空気」「人物の印象」「時代の息づかい」を、前田会長は自らの体験を交えて語ってくださいます。

こうした“生の証言”を聞ける機会は滅多にありません。 新聞やニュースを読むときにも理解が深まり、視野が広がる内容になるはずです。

この回は中止になりました。次回の予定は追ってお知らせします。

📅 日時

7月18日(土) 14:00〜16:00

📍 会場

日中友好協会 兵庫連合会 教室

👤 講師

前田清・県連会長(毛沢東と面会した経験を持つ)

💴 参加協力費

500円

📞 お申し込み・お問い合わせ

日中友好協会 兵庫県連事務所 TEL/FAX:078-412-2228

中国旅の思い出(第5回)

400年掘り続けられた祈り ― 龍門石窟との出会い

494年、北魏の孝文帝は都を平城から洛陽へ移しました。 これにより、仏教彫刻史は雲崗期(460〜494)から、 新たな龍門期(494〜520)へと舞台を移します。 今回ご紹介するのは、その龍門期の中心地――龍門石窟(ろんもんせっくつ)です。

■ 牡丹の季節、洛陽へ

私が龍門石窟を訪れたのは、五一(メーデー)の休暇。 当時(2008年)はまだ旅行アプリなど使っておらず、 ガイドブックを見てホテルに電話し、中国語で予約していました。

中国語が堪能ではなかったため、 電話口で相手が早口でまくしたてると、ほとんど理解できません。 この時も色々言われましたが、 「可以(カーイ/はい)」「不可以(ブカーイ/いいえ)」以外は言うな、と自分に言い聞かせ、 「〇月〇日、一人、泊まりたい」とだけ伝えると、可以と言われて予約成立。

洛陽のホテルに着いて、ようやく相手が言いたかったことが判明しました。

中国の国花は牡丹。 そして牡丹の名所といえば洛陽。 5月はちょうど牡丹の季節で、街では牡丹節が開催されており、 宿泊費が通常の約1.5倍になる―― これを伝えたかったようです。

せっかくの機会なので、まず中国国家牡丹園を訪れました。 牡丹は「富貴の花」と呼ばれるだけあって、 可憐というより、堂々と華やかで、見事な美しさでした。

■ 400年以上掘り続けられた石窟群

牡丹の余韻を胸に、龍門石窟へ向かいました。

龍門石窟は北魏の龍門期(494〜520)に始まり、 その後、隋・唐の時代まで掘り続けられ、 実に400年以上にわたって造営が続いた巨大な石窟群です。

雲崗の粗い砂岩質とは異なり、 龍門は緻密で硬い岩質のため、巨大な石窟を開削することはできませんでした。 そのため、仏像の様式も変化し、 面長でなで肩、首が長く華奢な印象が強まり、 西域風の意匠は薄れ、中国固有の造形が際立つようになります。

石窟は伊河沿いに約1kmにわたり続き、 10万体の仏像が納められていると言われます。

■ 小さな石窟の連続、そして突然現れた巨大仏

市バスの「龍門石窟」停留所で降り、 北魏時代に掘り始められた古陽洞から順に見ていきました。

小さな石窟や仏像が延々と続き、 「10万体と言われても確かに納得だな」と思いながら歩き続けること1時間以上。 少し疲れを感じ始めたその瞬間――

目の前に、巨大な仏像が突然現れたのです。

この時の衝撃は、今でも忘れられません。

そこは奉先寺洞。 唐の時代(675年)に完成した龍門石窟の象徴で、 本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)が鎮座しています。

当時の実権を握っていた則天武后に似ていると噂された仏像で、 静かに、しかし圧倒的な存在感で私たちを見下ろしていました。

■ 石窟を知らずに訪れたからこそ

歴史上は雲崗石窟の後に龍門石窟が造られましたが、 私はその順序も知らず、 しかも龍門が“初めて訪れた石窟”でした。

石窟がどんなものかもほとんど知らない状態で、 突然あの巨大仏が目の前に現れた時の驚き―― 言葉ではとても伝えきれません。

ぜひ皆さんも、中国を旅して、 自分だけの“驚き”を見つけてみてください。

中国旅の思い出(第4回)

北魏が刻んだ壮大な祈り ― 雲崗石窟の迫力

中国では長く儒教が中心でしたが、西暦1世紀ごろ、インドから仏教が伝来しました。 漢の時代を経て五胡十六国の混乱期に入り、北魏では一時「廃仏」が行われます。 しかし文成帝が仏教を復興し、僧・曇曜に命じて460年、ついに雲崗石窟(うんがんせっくつ)の開削が始まりました。

■ 大同の郊外、武周山の岸壁に刻まれた巨大石窟

雲崗石窟は山西省の最北、大同市の西15kmほどの武周山に位置します。 北魏の都・平城(現在の大同)に近く、公共バスで行ける場所ですが、 周囲にはほとんど何もなく、静かな荒野の中に突然“巨大な仏の世界”が現れる―― そんな印象が残っています。

バス停「雲崗石窟」で降りて歩き始めると、 遠くに大きな石仏が見えてきます。 これが最初に削り出された曇曜の五窟。 北魏の初代・道武帝から文成帝までの五人の皇帝になぞらえて造られたものです。

正面にそびえるのは第20窟の露天大仏。 雲崗石窟の象徴ともいえる存在です。 もともとは窟内にありましたが、10世紀頃に崩落し、 現在のように“空の下に露わになった大仏”となりました。

■ 西域文化の息づかい ― くっきりした目鼻立ち

雲崗の仏像は、目鼻立ちがくっきりしているのが特徴です。 西域や北方民族の文化の影響が色濃く、 ガンダーラ美術やグプタ朝の様式が感じられます。

粗い砂岩質の岸壁を削り出して造られた巨大仏。 460年から60年以上、途切れることなく彫り続けられたといいます。 しかも失敗なく、均整の取れた美しい姿を保っている―― その事実を前にすると、 「これは本当に人間の手によるものなのか」と思わず息をのみました。

奈良の大仏と同じほどの大きさですが、 鋳造ではなく“岩を削って造る”という技法は、 想像を絶する労力と技術が必要です。 ただただ圧倒されるばかりでした。

現在、53の石窟が現存し、約5万体の仏像が残っています。 雲崗石窟は、中国四大石窟のひとつとして世界的にも知られています。

■ 雲崗期から龍門期へ

北魏は孝文帝の時代(494年)、都を平城から洛陽へ遷都しました。 それにより、460年から続いた雲崗での仏教彫刻――雲崗期は終わりに近づき、 新たに洛陽での仏教彫刻、すなわち龍門期が始まります。

次回は、その龍門石窟の旅へと続きます。 どうぞお楽しみに。

客車に印字された「XL」って何の意味?

ネット民:まさか“特大サイズ”?

最近、 あるネットユーザーが

「列車に乗ったとき、車体に“XL”で始まる アルファベット+数字の番号があった。 これって車両にも“加大碼(特大サイズ)”があるの?」

と投稿し、話題になりました。

実はこの「XL」

旅客列車の“行李車(荷物車)”を表す記号なんです。

車体には「XL」以外にも 「YZ」「RZ」「YW」「RW」「KD」など さまざまな記号が書かれています。

これらはすべて 列車の“身分証明書”のようなもの

客車の外側にある番号は3つの要素で構成

  1. 車種(用途)

  2. 车型(車両形式)

  3. 车号(車両番号)

それぞれの意味を見ていきます。

左側の大文字2文字

→ 車両の用途を表す

用途は中国語のピンイン頭文字で示されます。

  • YZ → 硬座(普通座席)

  • RZ → 軟座(ソフトシート)

  • YW → 硬臥(硬い寝台)

  • RW → 軟臥(ソフト寝台)

  • CA → 餐車(食堂車)

  • XL → 行李車(荷物車)

  • KD → 発電車(空調発電車)

※「CA」は“can(餐)”の頭2文字 ※ 発電車は正式名称が「空調発電車」のため「KD」を使用

さらに、 二階建て客車は先頭に“S”が付くのが特徴。 例:SYZ → 二階建て硬座車

中央の数字+アルファベット

→ 車体の長さ+車両形式

例:25G

  • 25 → 車体長25m級

  • G → 改良型(時速120km)

よく見かける形式は以下のとおり。

  • B → 標準型(120km/h)

  • G → 改進型(120km/h)

  • K → 快速型(140km/h)

  • T → 提速型(160km/h)

右側の数字

→ 車種+製造番号

右端にある6桁の数字は車号で、 車種や製造番号などの情報を示しています。

「X局X段」

→ 車両の配属先

車体には「○局○段」という表示もあります。 これは車両の“所属”を示すもので、 人間でいえば戸籍地のようなもの。

例: 「沈局長段」=中国鉄路瀋陽局集団有限公司 長春車両段に所属

配属先は、 その車両の所有・管理・保守・運用責任を担う重要な情報です。

車体の番号にはこんなに多くの意味が

次に列車に乗るときは、 ぜひ車体の“身分証”を眺めてみてください。 意外な発見があるかもしれません。


出典: 《人民鉄道》報業有限公司遼寧記者站(瀋陽局集団公司融媒体中心) 長春車両段融媒体工作室 文・写真:刘天明、王猛、葛馥亮、贺国明、李鹏博、尹晨曦 編集:齐美华 校閲:李孝佺