華僑が故郷に残した“帰郷の城” ― 開平の碉楼
今回ご紹介する中国の特徴的な住宅は、 広東省中央南部・開平(カイピン)市に建つ碉楼(ディアオロウ)です。
広州から列車で2時間かからずに行け、 開平駅からはバスで各村落へ向かうことができます。 中国の伝統建築と西洋建築が融合した、非常に独特な住宅で、 私自身も訪れてみて強く心を惹かれた場所です。
■ 世界遺産に登録された“西洋風の中国建築”
碉楼は2007年に世界遺産に登録されました。 20世紀初めに建てられた鉄筋コンクリート製の住宅は、 当時としては非常に珍しく、貴重な建築だったことも登録理由の一つです。
開平周辺には、 5つの村落群に約1800棟もの碉楼が現存しています。
中国にありながら中国らしくない建物―― その理由は、広東省(特に江門市・開平市)に 多くの華僑(海外に渡った中国人)がいたことにあります。
海外で財を成した華僑たちは、 故郷に錦を飾るために碉楼を建てました。 しかし、ただ豪華な住宅というだけではありません。
開平は低湿地帯で水害が多く、 さらに盗賊の襲来も頻繁だったため、 碉楼は望楼や銃眼を備えた頑丈な高層建築(3〜6階建て)として造られました。 華僑の富と、故郷を守るための知恵が融合した建物なのです。
■ 世界遺産登録直後の“素朴な村”
私が訪れたのは世界遺産登録から間もない頃。 そのためか、ほとんど土産物屋がなく、 世界遺産にしては珍しく静かな雰囲気でした。
一般に世界遺産の観光地は土産物屋であふれていますが、 ここは何もない分、少し寂しくもあり、 逆に素朴さが際立っていました。 (今ではきっと多くの店が並んでいるかもしれません)
もう一つ印象的だったのは、 ほとんど人が住んでいなかったことです。
華僑が故郷に建てた碉楼ですが、 文化大革命の時期に多くの人が再び海外へ渡り、 戻れなくなったため、空き家となった建物が多いと聞きました。
■ 田園に佇む碉楼 ― どこか懐かしい風景
どの村落を訪れても、 田園の中にポツンと立つ碉楼はどれも雰囲気があり、 散策していてとても気持ちが良かったです。
中国の中でありながら、 どこか異国のような、しかし懐かしさも感じる風景。 華僑の歴史、故郷への思い、時代の流れ―― さまざまな物語が建物に刻まれているようでした。
中国の旅の中でも、 “ちょっと違う一面”を見られた場所として、 開平の碉楼は強く印象に残っています。

福建省南端、広東省に隣接する永定という町には、 客家の人々が13世紀頃から建て始めた土楼が点在しています。 永定には46ヶ所の土楼群があり、建物は長方形や円形をしていて、 壁の厚さは1〜2m、3〜5階建て。 数十家族から、最大では200家族が共同生活を営んでいます。
入り口は一つだけ。 外敵から身を守るための“要塞住宅”としての役割も果たしていました。
しかし今回は、 「土楼に泊まれる」という情報があったものの、どうしても予約が取れず、 「とにかく行ってみよう」と永定へ向かいました。
まず昼食をとろうと食堂に入ると、客は私一人。 壁には手書きの土楼群の地図が貼られており、 それをじっと見ていると、店主が「旅行者か?」と声をかけてきました。
翌朝、食堂前からバイクタクシーに乗り、 手書きの地図にあった有名な土楼群へ向かいました。
昼から、布達拉宮のすぐ近くにある大昭寺(ジョカン寺)へ向かいました。 ここも世界遺産に登録されており、ラサの中心に位置するチベット仏教の聖地です。
大昭寺の前では、多くの信者が五体投地をしていました。
巡礼者は大昭寺へ向かう巡礼道「バルコン」を通り、 マニ車を回しながら歩く人もいれば、 五体投地を繰り返しながら少しずつ前へ進む人もいます。
昨晩は少し頭痛がありましたが、朝になるとすっかり回復していました。 ホテル近くの小さな雑貨屋へ行くと、店番のおばさんが「你好」と声をかけてくれます。 一度会っただけなのに挨拶してくれる――その温かさがとても心地よく感じられました。
その後、国内の仏教対立や王位継承問題などで吐蕃は877年に滅亡。 時代は流れ、1642年にダライ・ラマ5世がチベットを再統一し、 3年後に増築する形で布達拉宮の建設が再開されました。 歴代のダライ・ラマによる増改築が続き、 1936年に現在の姿となりました。
布達拉宮では屋上にも上がることができました。 写真で見る布達拉宮は壮麗ですが、 屋上から眺める景色もまた格別です。
布達拉宮は、現在の中国で発行されている50元紙幣の裏面に描かれています。
中国の旅では、いつも安ホテルを利用しています。 今回も写真にあるような二階建ての素朴なホテルに宿泊しました。
納木错の標高は4700m。 酸素ボンベを携帯しての訪問です。
湖の向こうには、 万年雪をいただく7000m級のニェンチェンタンラ山脈が横たわり、 静寂の中に圧倒的な美しさが広がっています。
この神聖な湖でも、祈祷旗と同じくらいよく見かけるものがあります。 それはヤクの糞です。
前回ご紹介した九塞溝のすぐ隣、 といっても山ひとつ隔てて何十キロも離れていますが、 四川省北部にはもう一つの絶景、黄龍(ホアンロン)があります。
ここは、石灰分を含んだ湧水が 気の遠くなるような年月をかけて自然に作り上げた石灰棚。 その棚田のような段々に、 彩池(さいち)と呼ばれる湖沼がどこまでもどこまでも続いています。
私は文学の才能はありませんが、 黄龍を歩きながら「水色とは何か」を考えさせられました。
今回は、中国内陸部・四川省の北端に位置する九塞溝(きゅうさいこう/ジウジャイゴウ)です。 省都・成都から飛行機なら1時間足らず、現在では高鉄(新幹線)で約2時間と、アクセスは非常に便利になりました。
九塞溝には数多くの名勝がありますが、その代表格が五花海です。
九塞溝の最奥、海抜3100mに位置する五彩池は、 まさに九塞溝の象徴ともいえる場所です。
入り口から歩いていくと、連なる湖沼の間に盆景灘瀑布が現れます。 海抜2000m付近なので、夏でも涼しい風が心地よく感じられました。
私が龍門石窟を訪れたのは、五一(メーデー)の休暇。 当時(2008年)はまだ旅行アプリなど使っておらず、 ガイドブックを見てホテルに電話し、中国語で予約していました。
龍門石窟は北魏の龍門期(494〜520)に始まり、 その後、隋・唐の時代まで掘り続けられ、 実に400年以上にわたって造営が続いた巨大な石窟群です。
この時の衝撃は、今でも忘れられません。
歴史上は雲崗石窟の後に龍門石窟が造られましたが、 私はその順序も知らず、 しかも龍門が“初めて訪れた石窟”でした。
中国では長く儒教が中心でしたが、西暦1世紀ごろ、インドから仏教が伝来しました。 漢の時代を経て五胡十六国の混乱期に入り、北魏では一時「廃仏」が行われます。 しかし文成帝が仏教を復興し、僧・曇曜に命じて460年、ついに雲崗石窟(うんがんせっくつ)の開削が始まりました。
バス停「雲崗石窟」で降りて歩き始めると、 遠くに大きな石仏が見えてきます。 これが最初に削り出された曇曜の五窟。 北魏の初代・道武帝から文成帝までの五人の皇帝になぞらえて造られたものです。
粗い砂岩質の岸壁を削り出して造られた巨大仏。 460年から60年以上、途切れることなく彫り続けられたといいます。 しかも失敗なく、均整の取れた美しい姿を保っている―― その事実を前にすると、 「これは本当に人間の手によるものなのか」と思わず息をのみました。
北魏は孝文帝の時代(494年)、都を平城から洛陽へ遷都しました。 それにより、460年から続いた雲崗での仏教彫刻――雲崗期は終わりに近づき、 新たに洛陽での仏教彫刻、すなわち龍門期が始まります。
前回の終わりに触れたことわざ、 「五岳から帰れば山を見ず、〇〇から帰れば岳を見ず」。 この“〇〇”に入るのが、今回ご紹介する黄山(こうざん)です。
黄山には69の峰があり、そのうち16の峰が特に素晴らしいとガイドブックに紹介されていました。 山中で1泊する予定だったので、 「2日間で16峰すべて制覇しよう」と意気込んで出発しました。
翌朝は暗いうちに出発し、 日の出が最も美しいと言われる光明峰へ向かいました。
黄山には三主峰と呼ばれる 蓮花峰・光明峰・天都峰があります。