「日中友好平和の塔」50周年迎え記念の集い

中国駐大阪総領事や芦屋市副市長が来賓あいさつ

芦屋公園の「日中友好平和の塔」が建立50周年を迎えました。日中友好協会芦屋支部と同兵庫県連合会が共催し、7月8日(土)昼前、塔前で記念の集いを開きました。

集いは、前田清協会兵庫県連会長が主催者あいさつ(写真上)、福田千種芦屋支部長が塔建立に至る経緯を紹介しました。福田氏は、1969年1月、当時の協会芦屋支部は侵略戦争への反省の上に「日中不再戦碑」建設を提唱、翌年1月建設準備会を発足し取り組みを具体化、1970年10月に実行委員会を発足、「日中友好平和の塔」建設を確認し、広く市民に協力を訴えました。5000人余りの人たちの協賛を得て寄付金が寄せられ、3年に及ぶ取り組みを経て1973年7月7日に除幕式が行われたことを紹介しました。

集いには、来賓として中華人民共和国駐大阪総領事館の薛剣総領事(写真上2)、芦屋市長代理として御手洗裕己芦屋市副市長(写真上1)、協会大阪府連合会の渡辺武会長、平野貞雄芦屋市会議員があいさつしました。また、芦屋市議会・帰山和也議長、日中友好協会本部・井上久士会長、協会京都府連合会からメッセージが寄せられました。

ロシアによるウクライナ侵攻が続き、北朝鮮の大量破壊兵器や弾道ミサイル等の増強の下、中国の台湾周辺における威圧的な軍事活動の活発化を脅威とし、岸田内閣は、防衛費をGDP比2%へ倍増するなど大軍拡を進めています。昨年の日中国交正常化50周年に続き、今年は日中平和友好条約締結45周年の節目の年にあたります。日中共同声明の精神や「日中友好平和の塔」銘板に刻まれた「一大不幸をもたらした太平洋戦争は、日中戦争にさかのぼる。これをきびしく反省して、真の日中友好と永遠の世界平和を祈念し実践しよう」の言葉の意義はいま極めて重要です。つどいは記念撮影し、平和と友好を誓い合いました。(U)

漢詩を読む会を開催、杜牧「江南春」を読む

昨年11月以来の開催に会場満席の盛況

「漢詩を読む会」は昨年11月以来5か月ぶりの開催で、4月15日は会場満席(写真)となりました。この日のテーマは晩唐の詩人・杜牧の代表作の一つ「江南春」。丹羽博之大手前大学教授の解説で詩の背景や江南地方の映像と詩の朗読動画を見ながら読みました。

丹羽教授は、この詩について、詩の背景を説明した資料「千里鶯啼いて」を引用し、「杜牧は晩唐を代表する詩人で、酒と詩を愛し、女性たちに騒がれたり、どこに行くのにも船に酒を積んで出かけたりと風流才子の異名をほしいままにしたが、一方、詩の世界では洗練された風景描写の中に、独特の味わいを出して、唐の詩人の中でも特に日本人に愛好された詩人」で す。「江南春」は江南(長江の南部一帯)の風景のすばらしさを詠んだ杜牧の代表作の一つですと紹介しました。また、詩の中の「千里」「多少」は和漢異義語で日本語とは意味が異なるので注意が必要と「故人」など他の例もあげ説明しました。

江南春(江南の春) 杜牧(803~852)

千里鶯啼緑映紅 千里鶯啼いて緑紅に映ず

水村山廓酒旗風 水村山廓酒旗の風

南朝四百八十寺 南朝四百八十寺(せんじ

多少楼台煙雨中 多少の楼台煙雨の中

見渡す限り千里のかなたまでも鶯の鳴く声が満ちる中、春の緑は赤い花々と映りあって美しい。水辺の村、山沿いの里に居酒屋の旗をひらめかせて風が吹く。南朝時代の江南地方には四百八十を数える寺院があったといわれるが、沢山の楼台が、煙のように立ち込める雨の中に見える。

・唐代の一里:約560m 

・酒旗:飲み屋の看板に使われた青い布ののぼり

・八十:「はせん」と読むのは平仄をあわせるため

・多少:いかほどの意の疑問詞。感嘆詞・反語となって数の多いことを強調する。

杜牧の風景を詠んだ詩には、独特の色彩感があります。当日紹介された下の詩は江南地方の秋の季節感を感じる詩です。

杜牧「寄揚州韓綽判官」 揚州の韓綽判官に寄す 

青山隠隠水迢迢 青山隠隠 水迢迢

秋尽江南草木凋 秋尽きて 江南 草木凋む

二十四橋名月夜 二十四橋 名月の夜

玉人何処教吹簫 玉人 何れの処にか吹簫を教うる

中国茶講座を再開、「黒茶」を楽しむ

黒茶の製造工程、効能、基本の淹れ方など学ぶ

昨夏の高温による生産地の干ばつ被害やコロナの影響などにより昨年7月以来休講していた「中国茶講座」は8ヵ月ぶりに3月15日再開しました。定員の12名が参加し神田貴子高級茶芸師から黒茶についての説明や主要産地と銘茶、製造工程、効能、基本の淹れ方などについて解説を受け、下記の6種を試飲しました。

広西チワン族自治区のお茶「陳年六堡茶」・「檳榔香六堡茶」、雲南省のお茶「陳年宮廷普洱茶」(写真左)・「小青柑普洱茶」(雲南省/広東省)、湖南省安化県のお茶「安化天尖茶」・「百両茶」の6種の黒茶を当日の資料で産地の地図を確認しながら味わいました。次回「中国茶講座」は6月14日(水)開催予定です。(次回は6月14日水曜日です、訂正してお詫びします)

中国認識の21世紀的転換点を眺望する

「日中国交正常化50周年記念講演会」西村成雄前孫文記念館副館長・大阪大学名誉教授が中国を語る

日中国交正常化50周年を記念し、日本中国友好協会兵庫県連合会は12月11日午後、西村成雄前孫文記念館副館長・大阪大学名誉教授を迎え、「中国はどこへ行く―中国共産党第20回大会~3期目を迎えた習近平体制」と題し神戸市内で記念講演会を開催し市民45人が参加しました。100分にわたる講演の一部を紹介します。

西村成雄氏は唐代から清朝時代の歴史を振り返り辛亥革命(1911年)以降、皇帝政治から共和制へ移行していく中国の国家体制が出来る過程や現在の中国をめぐる情勢について25ページにわたる資料を提示し、その歴史の延長線上にある現在の中国について語りました。中国をどう理解するか、3点をあげ解説しました。1、「六角形の中国(6領域から中国への認識)」、①政治②軍事③経済④金融⑤思想⑥社会、この分野が今後どうなっていくか、その特徴などを見ていけば歴史的発展段階がわかるのではないか。いま米国はこの領域で中国を抑え込もうとしている。2、「党国体制」、党が国家を運営するという考えがなぜ生まれたのか、政治の構造はどうなっているのかについて、これまでの近現代の歴史を25年毎の周期で考えてみる必要がある。清朝第6代皇帝・乾隆帝の時代に3年間、国民の水準を引き上げるためとして訓政(国民を指導する体制)を執った歴史がある。乾隆帝没(1799年)後、アヘン戦争、辛亥革命を経る中で国家体制について、皇帝政治を倒し共和制へと体制移行する過程で中国は、英国型のブルジョワジー政党制やドイツ、日本型の官僚主導の政治体制ではなくロシア型の革命党主導の政治体制を執り、今日まで引き続がれてきた歴史を解説しました。3、「世界の中の中国」、世界における中国の位置付け、国際的枠組みを知っておく必要がある。2010年、中国のGDPは日本を超え、現在は3倍となっている。米国に次ぐ世界第2の経済大国となり、これが軍事力にも影響を及ぼしている。この中国と今後どう付き合っていけばよいのか、先ずは相手(中国)のことを正しく、よく知ることです。その上で、それを超える論理を考えることが大事ですと語りました。

「中国残留邦人への理解を深める集い」に市民170人参加

中国帰国者の体験発表やドキュメンタリー映画上映

神戸市主催・委託事業団体、中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会(浅野慎一代表)実行の2022年度中国残留邦人への理解を深める集い「中国『残留日本人孤児』の歴史を語りつぐために」が11月23日、神戸市立長田区文化センター別館ピフレホールで開催され市民約170人が参加。開会に際し、杉浦裕幸神戸市福祉局就労監査担当課長が主催者を代表してあいさつ、続いて浅野慎一中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会世話人代表があいさつしました。(写真上:あいさつする浅野慎一中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会世話人代表)

集いは、植田恒陽さん(1944年中国黒竜江省佳木斯生まれ)が「残留孤児」となった経緯やその後中国人家庭で育てられたこと、肉親捜しでやっと家族が見つかり帰国できたこと、帰国後の状況などについて体験を語りました。続いて、沖縄県出身の残留婦人・仲松良子さんの長男仲松長征さんの配偶者・仲松蘭子さん(1991年41歳の時、子ども2人を連れて日本へ)は自身の中国での体験や家族のこと、帰国後の生活や日本語教室へ通っていることなどについて語りました。(お二人の体験談は字数が多いため発表全文はHP「帰国者支援」のページで紹介します)。

最後に、残留婦人2世の山田静さん(撮影時59歳)が帰国後22年、東京でタクシードライバーとして働く姿や、家族と共に強く明るく生きる波乱万丈の人生を追ったドキュメンタリー映画「中国・日本わたしの国」(2013年、ちと瀬千比呂監督)を上映。山田静さんは、母の祖国・日本へ来て22年目(2013年当時)を迎えた中国残留婦人2世。中国で2度、日本で1度の離婚を経験し、異父兄妹4人の子を女手ひとつで育て挙げた。誰に対しても物怖じせず、自身の主張は通す。弱音は吐かず、誰の手助けも借りようとしない。日本へ来てからは忙しく、病気をする暇もなかったという彼女が腎臓を患って手術した。その際、長く大連のお墓を訪ねていないため、母が怒ったのでは、と2人の子を連れて中国へ里帰り、その旅にもカメラが同行取材し紹介する記録映像。

元気もらった!日中の楽器演奏・歌・舞踊

出演者の素晴らしい演技、パワーが聴衆を魅了!

日中国交正常化50周年を記念し、日中友好協会東神戸支部主催、同兵庫県連合会協賛の「日中友好・夢コンサート」が10月28日(金)午後、神戸市東灘区のうはらホールで開催され市民約200人が参加しました。中国人留学生や在日中国人の参加もあり会場内の各所では交流の姿もみられました。開会にあたり、主催者を代表して前田清兵庫県連合会会長が開会のあいさつ、来賓として中華人民共和国駐大阪総領事館の方煒副総領事があいさつされました。薛剣駐大阪総領事と神戸市の久元市長からはメッセージが届きました。

今回のコンサートプロデューサーの劉偉さんが司会を務め出演者や演奏する楽器の紹介、説明を行いました。李亜輝さんの素晴らしい音色の二胡、劉偉さんのフルス、横笛、久保比呂誌さんの津軽三味線、ピアノ演奏や星千尋さんのパワフルな歌声、劉偉さんの哀愁をおびたモンゴル民謡、郭鋭さん・オルドントヤさんの若さみなぎる舞踊に参加者は魅了され長く大きな拍手を送っていました。日中両国の楽器演奏、歌、舞踊を通した交流に、会場を訪れた人々は両国民間人の心の交流、市民レベルの友好と平和の大切さを感じられたのではないでしょうか。

王希奇教授の「満州」引き揚げ絵画展に1900人

1900人来場し大きな反響!新聞・テレビ・ネットで報道

「一九四六」神戸展実行委員会が8月31日~9月4日の5日間、神戸市灘区の原田の森ギャラリーで開催した魯迅美術学院・王希奇教授が描いた大作「一九四六」絵画展は5日間で約1900人が来場しました。絵画展には県内各地のほか、大阪、京都、奈良、滋賀をはじめ島根、福岡、岐阜、名古屋、神奈川など遠方からも多数来場しました。今回の絵画展開催には各界の著名人105人から特別サポーターとして応援して頂きました。(写真上は8月31日の会場

マスコミ各社の事前報道や、8月31日の開会セレモニーでは新聞、テレビなど多数が取材で来場し当日の夕刊、翌日の朝刊で大きく紹介、ネットニュースでも報じられ話題となりました。日中国交正常化50周年の記念すべき年に、中国人画家が描いた日本人難民の大型絵画が展示され反響をよんでいて、中国駐大阪総領事館の薛剣総領事が開会式で来賓あいさつをされたこともあり中国の人民日報(9月3日付)でも報道されました。(写真上:多くの若者も訪れた9月3日

会場中央の机に置かれた「感想ノート」には103人の来場者が自身の体験や親から聞いた当時の様子、圧倒される大きさの作品を目にし、絵に描かれている不安と安堵の混じった引揚者の表情などから感じたことなどをノートにびっしり書き込んでいました。(写真避難民が生じた歴史的背景の解説文に見入る入場者、8月31日

「船の後ろから見た海面、ジーンとくるものがあります。乗船を待つ避難民、この乗船場までどれほどひどい状態でたどり着いたかを想像しました。ウクライナの人たちの避難民と像が重なります。決して許すな戦争を!」(絵の中央に描かれた遺骨を抱えた男装の少女)

「葫蘆島、私にとって忘れられない所、満州奉天(今の瀋陽市)から子ども6人、姉14、12、兄10、私6、弟3歳、末の弟0歳の赤ん坊、父は天津に抑留中で、母はひとりで連れて帰ったのです。絵画展を見て、母のこときょうだいのこといっぱい思い出し涙しました。大きな絵、よくぞ描かれたと思います。子どもの表情に私の気持ちが偲ばれました」(写真:「一九四六」の作者・王希奇魯迅美術学院教授

「どうしても見たくて足を運びました。涙が止まりませんでした。平和がどんなに大切な事か、世界中で戦争がなくなり平和な新しい世がきますように!」

「胸にせまる色んな思いで文章にしきれないです。加害者となった日本として、戦争を知らない世代ですが二度と戦争が起きないよう平和な日本を子や孫に残さなければと強く思いました」(感想ノートに書かれた入場者の感想文より一部を紹介)。

人民網でも報道されました!

強制連行・強制労働による中国人犠牲者を追悼

―日中友好は戦争責任の反省から―

強制連行され県内で犠牲となった45人の中国人を追悼する「中国人犠牲者を慰霊する集い」が9月11日午後、日中友好協会兵庫県連合会主催で神戸市兵庫区の宝地院で開催され、読経と焼香で犠牲者を追悼しました。終了後、DVD・セミドキュメンタリー映画「私はシベリアの捕虜だった」を観ました。

アジア太平洋戦争末期、国内の労働力不足を補うため日本政府は大陸から約3万9千人の中国人を強制連行し国内の135事業所で苛酷な労働を強いて全国で6834人が亡くなりました。

兵庫県内へは、1943年~44年に996人を神戸港へ(一部は北海道・函館や石川・七尾などへ移送)、相生市の播磨造船所へ490人が強制連行され厳しい監視の下、港湾荷役や造船所の雑役工として使役され神戸港で17人、播磨造船所で28人が亡くなりました。

戦後、1950年に日中友好協会が創立し、全国で中国人強制連行の実態調査と犠牲者の遺骨送還に取り組みました。兵庫県内でも調査が行われ、1957年10月に「兵庫県殉難中国人慰霊祭」を行い犠牲者を追悼しています。翌58年、第8次遺骨帰還船で、宝地院住職(当時)と協会神戸支部役員の2名が遺骨を中国へ持参し納骨しました。

兵庫県殉難中国人慰霊実行委員会がまとめた小冊子―神戸港・中国人殉難略記「爪跡を探る」(1961年3月24日付)に、連行されてきた中国人の状況が記されています。その一部を紹介します。

目を覆う犠牲―神戸港就労者は、はじめ海岸通りの旅館に収容され、のちに三宮の万国館・北長狭通七丁目の戎井旅館(新華寮)等に移されて、そこから港湾の荷役作業に就労していました。収容条件がとくにひどかったことは食べ物で、「私たちの食べ残しや、おこげなど、食べ物なら何でも口へいれました。割当量が少ないのでいつもお腹を空かしていたのです」

悪鬼の所業―彼らが連行されてきた事情について、当時、労務者調達機関の一つであった福昌華工KKの社員で、華工の神戸港・第一回移入210名(1943年9月9日受入れ)の移送に従ったG氏(兵庫区佐比江町居住)は、「労工を調達するのもたいへんでしたよ。募集すると言ったって、海を渡って遠い日本へ、戦争中だし、誰が来るものですか。困った挙句が《兎狩り》つまり人さらいをやったわけです。駅の前へアミをはっていて汽車から降りてくる奴の中から、使えそうなのを片っ端から引っぱったのです。勿論こちらは兵隊で武装しているのですから有無を言わせませんよ。トラックで収容所まで運んでここで人数をまとめてから内地へ連れてきたのですが、実にひどいことをやったものです」との証言が書かれています。略記の最後のページには、―日中友好は戦争責任の反省から―と記されています。(U)

王希奇教授の「一九四六」神戸展始まる

主催者、来賓あいさつ、テープカットで一般公開始まる

9月4日(日)午後3時まで 原田の森ギャラリー2F

「一九四六」神戸展実行委員会は8月31日(水)午前10時から展示場入り口で開会式を行い9月4日(日)までの期間で一般公開が始まりました。開会式は、安斎育郎実行委員会代表が開会あいさつを行い、続いて中華人民共和国駐大阪総領事館の薛剣総領事、(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構特別顧問、前兵庫県知事・井戸敏三氏、福知山公立大学名誉学長で元京都府立大学学長・井口和起氏、元帝塚山短期大学学長・森一貫氏が来賓あいさつされました。会場入り口にはすでに大勢の人が集まり入場を待っていました。安斎代表・薛剣総領事・井戸敏三氏・井口和起氏・小松電機産業  人間自然科学研究所会長兼社長の小松昭夫氏の5氏がテープカットを行い「神戸展」が始まりました。(写真上:開会あいさつをする安斎育郎実行委員長、下:テープカット、左から2人目は薛剣中国駐大阪総領事)

上記5氏の他に、NPO法人国際音楽協会理事長・張文乃氏、移情閣(孫文記念館)友の会会長・林同福氏、神戸市市長室国際局長・檀特竜王̪氏が来賓として出席されました。開会式にはテレビ、新聞などマスコミ各社多数が取材に訪れていました。展示場には、王希奇教授の大作「一九四六」の他に「一九四六見守る海」、「一九四六帰路」、「記憶」、「一九四六下絵」など14点と浅野慎一摂南大学教授・中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会世話人代表作成の「一九四六」解説、「『満州国』と日中戦争」「日本人移民『満州農業移民』」「ソ連軍進攻と日本敗戦」「逃避行、難民流浪」「引揚げの遅延、難民収容所」「引揚げ事業とその中止」「引揚者のその後」「引揚船に乗れなかった人々のその後」が展示されており多くの参加者が立ち止まって読んでいました(写真上)。また会場には、神戸華僑総会舞獅隊と生田神社獅子頭保存会からお借りした中国と日本の獅子頭が展示されています。(写真上:あいさつする薛剣駐大阪総領事)

高松塚壁画発見50周年―来村多加史教授が記念講演

高松塚壁画の源流が唐王朝にあると思わせるもの

7月30日(土)午後、日中友好協会加古川支部は、高松塚壁画発見50周年を記念し講演会を開催しました。講演会では来村多加史阪南大学国際観光学部教授が「画家が伝えた中国の最先端文化」と題し約2時間講演しました。その一端を紹介します。

唐墓、章懐太子墓・懿徳(イトク)太子墓・永泰公主墓の3墓の墓室壁画は一流の画家により描かれた名作となっている。700年前後に築造されたものと推測される高松塚古墳の壁画は、3墓の壁画と時期をほぼ一にするものであるだけに、それらが比較検討されるのは当然のことであろう。高松塚壁画の画家が黄文連本実であるならば、彼が渡航して唐朝の絵画を学んだ時期は、3墓が営まれた時期よりも半世紀前である。比較するならば、その時期かそれ以前の唐墓壁画を引き合いに出すべきであろう。高松塚壁画の構図や運筆には、唐士(もろこし)においても一流と認められる技量が感じられる。よって、最先端の文化を担う画家たちの作品を見なければならない。

東アジアの墓室壁画概説

1、中国 およそ西周時代から墓室壁画の発想が現れるが、発見例は限られている本格的に発展するのは前漢時代になってからのことである。主題は、神々の世界を天井に表現し、魂の「昇天」を願うものであったが、後漢時代になると、壁面に現実世界の絵画が描かれ、被葬者が生前に送った生活を再現して見せるようになる。南北朝時代に西安や洛陽などの黄土地帯に深い土洞墓が掘削されるようになると、墓室には侍従や侍女に囲まれた屋内での生活風景が描かれ、墓道には、威儀を正して外出する儀仗出行の場面が描かれるようになった。

2、朝鮮半島 主に高句麗の壁画が残されている。高句麗は五胡十六国時代から強大化し、拠点を遼東から朝鮮半島の北部へと移していった。後期の都である平壤は、かつて漢民族の支配地であっただけに、漢民族の文化がよく残り、壁画の方面でも大きく影響を受けた。また南北朝時代には南朝との交流もあって、その影響を受けている。早くから受容した仏教的な色彩も強い。

3、日本 古墳時代後期から九州を中心に装飾古墳が築かれたが、抽象的なデザインが多く、具象的なものも原始絵画の域を出るものではなかった。飛鳥時代になって、中国との直接的な交流が始まるなか、遣唐使に同行して留学した僧侶や学生が唐文化をもたらした。キトラ・高松塚古墳の壁画もその交流史の中で語るべきでである。