8・15平和のつどい

戦争映画で考える戦争の加害と被害

1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、昭和天皇が終戦の詔書をラジオを通して読み上げ、アジア太平洋戦争が日本の無条件降伏で終結してから今年は75年になります。この日を忘れず二度と戦争の惨禍を繰り返すことのないようにと願い、兵庫の「語りつごう戦争」展の会は毎年この日に平和の集いを開催しています。

今年は永田喜嗣氏が講演します。永田氏は多年にわたって国際交流事業に携わり、現在は世界中の映画を通じて戦争と人間を研究することをライフワークとし、作家活動及び講演活動を行っています。

日時:2020年8月15日(土)午後2時~4時

会場:神戸市勤労会館3階308号会議室(三宮駅東)

講師:永田喜嗣 大阪府立大学非常勤講師

テーマ:「戦争映画で考える戦争の加害と被害」

資料代:500円 高校生以下無料

※マスク着用、体調不良の方はご遠慮下さい。

 定員46名 先着順です(人数制限があります)

主催:兵庫の「語りつごう戦争」展の会

連絡先:090-5896-6048(上野さん)

甦れ歴史の記憶―中国人強制連行写真展

平和への祈りを込めて撮った写真

1942年11月戦争中、当時の日本政府は「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、約4万人もの中国人が甘言や強制的手段で日本に連行され、炭鉱や建設現場など135ヵ所の事業所で、賃金も支払われず、長時間の奴隷労働を強いられました。命を落とした人もありました。こうした問題は、戦後、日中国交正常化を経て90年代にようやく裁判などで明らかになりました。(写真上:鉱山乾燥場跡に残るの3本の煙突と手前中央は中華人病没供養塔)

京都でも、大江山のニッケル鉱山に200人の中国人が連行されており、1998年、被害者のうち6人が、日本冶金と日本政府を提訴しました。裁判所は被害を認定し、日本冶金との和解が成立しています。しかし、大半の被害者とその遺族にとり、戦争の傷はいまだ癒えることはありません。どんな歴史があったのか、被害者や遺族を支えてきた日本の支援者たちが、平和への祈りを込めて撮った写真をぜひごらん下さい。(写真は大江山ニッケル鉱山跡に建つ「中華人病没者供養」塔)

日程:7月10日(金)~14日(火)10:00~17:00

※7月10日は13:00から、14日は15:00まで

会場:ひとまち交流館 京都1F展示スペース

(河原町通五条下ル東側) 入場無料

主催:中国人戦争被害者の要求を支える京都の会

電話:075-642-3152(桐畑)

盧溝橋事件83周年

事件を契機に侵略戦争を中国全土へ拡大

1937年7月7日、中国・北京(当時は北平)の中心地から南西へ約15kmにある永定河にかかる全長260mの盧溝橋付近で夜間軍事演習を行っていた日本軍の部隊へ中国軍の陣地から数発の銃弾が撃たれたとして、これを不遜な「不法射撃」ととらえた日本軍は「膺懲」(征伐してこらしめる)と称して中国軍の陣地を攻撃、中国軍も抗戦し盧溝橋付近で日中両軍の戦闘が繰り返された。これが盧溝橋事件(7・7事変)です。

この事件をきっかけにして日本は1945年の敗戦まで中国全土への侵略戦争をおしすすめ、第2次上海事変、南京事件、731部隊の細菌戦、戦時性暴力、燼滅掃討作戦(三光作戦)、強制連行・強制労働事件、重慶などへの無差別爆撃、遺棄毒ガス事件をはじめとした加害行為を重ねてきました。今年は事件から83年になります。

西宮市に「火垂るの墓」記念碑が完成

「戦争の不条理」伝える記念碑の除幕式―西宮市

2020年6月7日(土)午後、強い日差しの下、西宮市奥畑の震災記念碑公園の一画で、小説「火垂るの墓」記念碑の除幕式が行われました。新型コロナウイルス感染防止のため規模を縮小して開催された除幕式には実行委員会の人たち、地元住民、マスコミ関係者など約100人が参加しました。「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会の土屋純男代表が碑建立に至った経緯を紹介しました。(写真上:除幕式であいさつする土屋純男代表)

「1967年に野坂昭如さんの体験を題材とした短編小説『火垂るの墓』が発表され、1988年にアニメ映画が制作されました。1995年の阪神・淡路大震災後この辺りは空地のままの土地があり、そこに野坂昭如さんが居たことを知り、当時、野坂少年が過ごした防空壕の場所などを調べることになりました。(完成した小説「火垂るの墓誕生の地記念碑)

その過程で、この戦争体験を何としても後世に伝えたいという願いが湧いてきました。2017年3月に建碑実行委員会をつくり、戦後75年にあたる2020年の完成をめざし昨年7月から寄付金募集を開始し、多くの人びとのご協力によりこの地に記念碑を完成させることができました。誠に感無量です」とあいさつし関係者により除幕されました。

西宮市に戦争の不条理を伝える記念碑が建立され、芦屋市には1973年7月に日中戦争への反省のもと、二度と戦争の惨禍を繰り返さないと誓った「日中友好平和の塔」が市民の努力で芦屋川河口付近の東岸に建てられました。阪神間に平和を祈念する記念碑が新たに建てられたことは、風化が叫ばれる中で戦争の悲惨さを後世に伝える身近な場所になることを願っています。(U)

中国残留日本人の帰国促進運動の歴史

戦後、民間三団体により3万数千人の在華邦人引き揚げが実現

戦争中に中国へ渡った日本人、日本の敗戦当時、中国には400万人近い民間人、軍人がいました。300万人近くは、1945年の敗戦から1948年にかけて日本へ引き揚げましたが、当時まだ多くの日本人が中国に残留していました。また引き揚げの中で多くの民間人が死亡しました。

1952年12月、当時の日本政府が1949年10月に誕生した中華人民共和国を認めない中で、日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡会(現在の日本平和委員会)の三団体が訪中、翌年3月、中国紅十字会と在華邦人帰国協定を結び、3月に第1次集団帰国が実現しました。その後1958年の21次まで帰国促進運動は行われ、合計3万数千人の在華邦人が帰国しました。

1972年の日中国交回復後、1975年から公開調査が行われ、残留日本人の帰国が促進され、1981年には「残留日本人孤児」の訪日調査が開始されました。しかし今日に至るもまだ帰国者の生活に関わる問題や残留日本人孤児を育ててくれた中国人養父母の問題などがあり、帰国者への支援活動は続けられています。(日中友好運動のあゆみより)

改憲発議に反対する全国緊急署名

いま、憲法を変えさせない!緊急署名にご協力を!

 2019年7月の参院選で、安倍晋三首相の改憲に賛成する勢力が3分の2を割りました。有権者は安倍首相に憲法96条の規定による改憲発議が可能な勢力を与えませんでした。にもかかわらず、安倍首相は民意が「改憲について論議すべき」という意思を表明したなどと、全く事実に反する強弁をしています。そして、自らの総裁任期の2021年までの改憲を目指して、野党の分断をはかり、改憲勢力の再編を狙っています。

 政治が果たすべき課題は山積しています。世論の多くは安倍首相の下での改憲を望んでいません。安倍首相が改憲に固執するのは、日本の軍事大国化をさらにすすめ、「戦争する国」に変えようとの狙いからです。もし、9条をはじめとする安倍改憲が実現すれば、日本は米国とともに世界各地での戦争や紛争に介入・参加していくことになるでしょう。私たちは国会が改憲の発議をすることを許さず、すべての市民の平和と人権、生活の向上のため、憲法を守り、生かすことを求めます。

           請願事項

内閣総理大臣・衆議院議長・参議院議長 宛

1、安倍首相らがすすめる憲法9条などの改憲発議に反対します。

2、憲法を生かし、平和・人権・民主主義、生活の向上が実現する社会を求めます。

「署名」は下記へお送り下さい。

〒658-0072神戸市東灘区岡本1丁目14-10岡本住宅ビル3F

日本中国友好協会兵庫県連合会

または、各地「九条の会」へ

被爆75年「3・1ビキニデー」核兵器のない世界へ

「3・1ビキニデー集会」は同実行委員会の緊急事務局会議が開催され、新型コロナウイルスの感染拡大の防止にとって「この1~2週間が極めて重要な時期」との判断で中止となりました。

核兵器禁止条約に調印・非核平和の日本を!

1954年3月1日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で広島型原爆の約1000倍の威力をもつ水爆実験を行い、マーシャル諸島の人々や多くの日本漁船などが被災しました。

焼津のマグロはえ縄漁船「第五福龍丸」は、アメリカ政府の指定した危険区域外で操業中であったにもかかわらず、“死の灰”を浴び、23人の乗組員全員が急性放射能症にかかり、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)は「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と言い残しその年の9月に亡くなりました。

この3・1ビキニ事件は日本国民に大きな衝撃を与え、広島・長崎をくりかえさせるなと、全国に原水爆禁止の声がまきおこりました。3千数百万の原水爆禁止署名が集められ、翌1955年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。「3・1ビキニデー」集会は久保山さんの遺志をひき継ぎ毎年開催が続けられてきました。

被災66年2020年3・1ビキニデー集会

日時:3月1日(日)13:00(12:00開場)~15:30

会場:焼津市文化センター・大ホール

「主な内容」

主催者報告、ビキニ水爆被災から66年、被害者の記憶と思いを伝える、海外代表の発言、全国の運動交流、文化企画、集会アピールの採択

主催:原水爆禁止世界大会実行委員会

被災66年2020年3・1ビキニデー静岡県実行委員会

中国戦線で撒かれた旧日本軍の「伝単」

日本が犯した戦争の醜さ、言葉巧みに投降を誘う

「伝単」とは、戦時において敵国の兵士、民間人の戦意喪失を目的として配布する宣伝謀略用の印刷物(ビラ)。

写真の「伝単」は、かつて中国で日本軍宣撫班に所属し、宣伝工作をしていた名古屋市の元日本兵の遺品で、遺族が「平和のために使って」と協会に寄贈されたもので協会兵庫県連がそのコピーを譲り受けたものです。1935年~1943年頃まで中国南部を中心に軍用機などからばら撒かれたそうです。

1935年から旧日本軍の特務機関で「伝単」を配ったことがあるという故・湯口智正さん(1914~2001)は生前、「この伝単を持って投降した中国人の多くが強制連行され強制労働に従事させられた、日本が中国に取り返しのつかない過ちを犯した」と語っていました。

「伝単に書かれた中国語」

:日本軍は中国の民衆を救うために戦っている。日本軍の後に着いてくる人は全て国民政府の毒牙から逃れ救われた中国の良民である。ほら、その笑い顔を見て下さい!

:来い!来い! 1、投降者がこのビラを持って日本軍の方へ来て下さい 2、日本軍はこのビラを持ってきた人を敵兵と見なさず優遇します。

戦争展で「中国人強制連行」について展示

中国大陸での強制連行・強制労働、数の多さに驚く

昨年12月6日~10日に神戸市内で開催された第42回兵庫の「語りつごう戦争」展で、日中友好協会兵庫県連合会は「万人坑と中国人強制連行」について図表や写真を数点実行委員会に提供し展示された。戦争展は期間中200人を超える市民が参観しました。

「万人坑⌉とは、15年戦争期、日本の中国侵略で犠牲となった中国人の遺体が埋められた「人捨て場」で、中国の人々は万人坑と呼んでいます。万人坑は中国の東北地方から南の海南島に至るまで数え切れないほど存在します。膨大な数の犠牲者の多くは、炭鉱や鉄鉱などの鉱山や軍事要塞、巨大ダムなどの土建工事などで強制労働させられ、主に過労と飢えにより衰弱死させられた中国人です。

「展示された写真」

■北票炭坑万人坑(遼寧省):中国人労工の遺体が大量に投げ込まれた深い谷、中央の白い建物(遺骨保存館)の手前。

■豊満水力発電所建設工事(吉林省):工事で強制労働させられる中国人労工。

■大同炭鉱煤峪口万人坑の遺体(山西省):廃鉱となった鉱脈に至る坑道に大量の遺体が捨てられ一部がミイラ化している。

(写真提供:青木茂氏)

南京大虐殺から82年

12月13日、中国では「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館は、南京侵華日軍受害者援助協会に登録されている生存者は79人になったと発表。今年は南京大虐殺82周年、日本軍による大虐殺から生き残った人は80代、90代となっています。12月13日は6回目の「国家追悼日」です。

1937年12月12日夕方、日本軍が南京城の南側と東側の城壁と門を突破し城内に殺到すると、中国軍将兵と市民はパニックに陥った。膨大な数の退却兵・潰走兵と、軍隊と一緒に南京を脱出しょうとする避難民の大群が、北西部の挹江門から脱出、長江(揚子江)を渡って逃げようと埠頭のある下関へ殺到した。しかし、南京死守作戦を命令した唐生智南京防衛軍司令長官によって、長江を渡るための船舶はすべて撤収されていた。13日午前2時、3時頃には、城内の砲声や銃声も途絶え、中国軍の全ての抵抗は瓦解した。南京城は陥落したのです。(上図は、太線・上海から南京への侵攻図)

一方、日本に於いては、12月13日の昼には「南京陥落戦勝祝賀大会」が後楽園スタジアムで開催され、10万人が集まり君が代を大合唱。14日には、全国の小中学校も休校とし、政府・官庁・教育界の肝入りで全国で旗行列、提灯行列が繰り広げられた。陸軍中央の統制を無視して強行した南京攻略戦であったが、大元帥昭和天皇からじきじきに「首都南京を陥れたることは深く満足に思う」との「御言葉」が下される大軍功とされたのです。

日本軍が南京攻略戦と占領下の南京で行った南京大虐殺についてはすぐに世界に報道されて、国際的な非難を呼び起こしたが、日本においては、軍部と政府の厳しい報道統制によって、日本国民には知らされることはなかった。(日中友好協会編「日中友好ブックレット3~日本は中国でなにをしたか」より)

写真は「村瀬守保写真集一兵士が写した戦場の記録・私の従軍中国戦線」より(写真説明は村瀬氏)

写真上:日本軍の砲爆撃により突破口をあけられた南京中山門の城壁。

写真中:虐殺された後薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体、ほとんどが平服の民間人でした。

写真下:焼かれた死体を見る日本軍兵士。